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2014年4月 2日 (水曜日)

盗作と原作改変について考える

 7時過ぎ起床。

 晴れ。

 キッチンマットが汚れているので洗濯。ついでにキッチンのカーテンも買ってから一度も洗ってなかったので、洗濯。

 家事や朝のモロモロを済ませると、お昼近く。

 くーたんのキャットフードを買いがてら外出。

 

 北千住界隈は桜が満開。花見に何処かに行く必要はないくらい。

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 今日の用事は何故か北千住東口方面に集まっている。

 ATMで記帳したり500円貯金を預金したりキャットフードを買ったり。

 朝を抜いたので、ブランチは、「定食かあさん」(このネーミングは学生街によくあるパターンだなあ)でサンマ塩焼きランチ。ここは注文してから焼くので、美味い。ほうれん草の胡麻あえを付ける。

 食事を済ませて郵便局に寄って、2円切手を買って帰宅。

 なんだか一仕事済ませた気分になってしまった。

 昨日と一昨日の日記に書いた、小林信彦にビートたけしがケンカを売った件が気になって、小林さんのエッセイ本を読み返すと、たしかにありました。

 「コラムは笑う」(筑摩書房・1989年)の中に、書いてもいないのに「たけしを娘が褒めていたと。褒められたとは言え、娘がそんなに偉いのか!」(大意)とたけしが朝日ジャーナルに載った対談で口走っていると。

 小林さんはそんなことを書いた覚えはない。たけしが複数のエッセイを勝手に合成して思い込んだのだろう、しかしそんな思い込みが活字になってしまうと一人歩きしてしまうのが困るのだ、と。

 が、この本で小林さんが猛攻撃しているのは、既に亡くなった脚本家の高田純。前田陽一と組んで松竹で「唐獅子株式会社」映画化を進めていたのだが、原作者が「脚本は大御所のKK氏かKS氏じゃないと駄目だ」と言ったとかで流れてしまったとイメージ・フォーラム誌に書いているが、全くのデタラメである、と東映で曽根中生監督で映画化されることに決まった経緯を書いて、高田純を「自称脚本家」と攻撃した。

 小林さんが怒った時の舌鋒の鋭さは若い頃からで、寺山修司などともかなりの論争をしていた。おれが大好きだった筒井康隆も平気で名指しで相手を批判して罵倒するのが好きだし……おれの師匠の市川崑さんも、映画監督が映画評論家にケンカを売ることなどなかった時代に、朝日の映画記者に反撃して、しばらく論戦を戦わせた。

 だからかなあ……おれも、我慢しないタチだから。

 で、同じ本に、「『Wの悲劇』は盗作ではない」という文章があって、他のことは覚えているのに、この文章は忘れていた。

 おれは映画「Wの悲劇」が大好きで、日本映画屈指の名作であると信じる者なのだが、「あれはアーウィン・ショーの盗作だから」と親しくさせて戴いている芦川淳一さんに言われて、ずっと気になっていたのだ。

 この文章の中で小林さん(かつて「ヒッチコック・マガジン」編集長で、盗作かどうかの判定には自信がある、とご自身でお書きだ)は、2つの作品(アーウィン・ショーの「愁いを含んで、ほのかに甘く」と映画「Wの悲劇」)の、盗作とされるポイント(新人女優がスキャンダルを利用してのし上がる)を並べて検証している。

 新人女優が「自己PRのために自ら進んで」主演女優のベッドで死んだ大物を引き受けるのがショーのアイディアで、主演女優が重要な役をあげるというエサで新人女優にパトロンの死を引き受けさせるが、騒動になった時に一大演説をぶって新人女優を成功させるのが映画「Wの悲劇」。と小林さんはまとめた上で、その結果として、


・(ショーの作品における)アイディアは日本では通用しまい。

・(映画の方は)そのプロセスが劇中劇の進行とWってゆくところに妙味があり、オリジナルな発想だ。


 として、2つの作品は、「完全に無関係とも言い切れない。ヒントを得ていると思う。しかし、ヒントを得ることが盗作ではない。これを盗作とすれば、日本映画の大家の名作、現代日本文学の代表作の幾つかが、盗作になってしまう」

 と断言し、要するに参考文献の1つにショーの短編を入れておけばよかっただけのことだ、としている。

 たしかに、黒沢の「用心棒」には原作表記はないけど、明らかにハメットの「血の収穫」の翻案だし。

 で、小林さんの文章は、この盗作騒ぎが起こった時期を問題視して、作られたスキャンダルではないかと疑問を呈しているところにポイントがある。

 ショーの作品を翻訳した常盤新平がこの件を指摘したことが、「(1985年の)1月12日までに分かった」と報じられている。

 この「1月12日までに」というのが曲者で、この時期は日本映画に与えられる大きな賞の選考が集中しているのだ。映画「Wの悲劇」のストーリーは1984年秋に明らかになっているし、映画はその年の暮れに公開されている。

 1月13日の新聞にこのスキャンダルが載るのは極めてクサい、と小林さんは指摘しているし、この作品のプロデューサーの角川春樹も「ちょうど映画賞が決まる時期にこういう問題が持ち上がるなんて、何かしら(誰かの)作為的なものを感じます」とサンケイスポーツのインタビューに答えている。

 小林さんは、誰の作為かは明らかだとし、何のための、については追及されなければなるまい、としている。

 小林さんが若い頃、「宝石社」を退社しなければならなくなった経緯は幾つかのエッセイや自伝的小説、そして大著「夢の砦」にフィクション化されて描かれているが、主人公(小林さん)が会社を辞めざるを得なくなるには、某人物の卑劣な策略があったのだ、と言うことになっている。幾つかの文章を総合すると、その「某人物」は常盤新平ではないか、と強く疑われる。これは、小林さんの作品を丹念に読んでいれば誰でも判る。

 そういうことも、この件の背景にはあるということを指摘しておこうとは思う。

 で、この事をミクシィに書いたら、芦川さんが「映画の原作を書いた夏樹さんの心情」についての書き込みをされたのだが……。

 小林さんは、映画と原作の違いについてはまったく何も触れていない。原作はアーウィン・ショーの短編とはまったく無関係なのだから、この「盗作騒動」とは無関係だ。

 で、原作は大幅に変えられている。原作は劇中劇の中に封じ込められた形になっていて、映画のメインは薬師丸ひろ子の女優志願の娘が女優になって行く話になっているのだ

 その「女優になっていく」メインプロットに、アーウィン・ショーの短編がヒントになっているわけで。世良公則との淡い恋とかライバルの高木美保(憎々しくて好演!)とか三田佳子のベテラン女優とのドラマが展開されて……。

 原作を提供したら、添え物扱いされてしまった夏樹さんの悲憤慷慨は大いに判るが、元映画屋としては、あの脚色はウルトラCの技アリだったと思うし、脚色は映画のためにするモノであって、かなり自由度があってしかるべきだ、と言う気持ちがある。市川崑はかの大谷崎の「鍵」を映画化して、最後は抱腹絶倒のドタバタコメディにしてしまった。「市川崑の映画化は原作への批評である」と評論家を言わしめただけのことはある。

 だから……というわけではないが、映画と原作は別物である、と思っている。そして、映画ファンとしては、原作の謎解きドラマを見るより、切れば血が出そうな薬師丸ひろ子のヴィヴィッドな成長物語を見たい。それは今も変わらない。

 その一方で、おれが原作者だったら、脚色されたシナリオを読んで頭の中が真っ白になるだろう。しかし、出来上がった映画を観て、あんな傑作になってしまったら、もう評価するしかないだろう。舌を巻いて「アッパレ」と言うしかない。

 今、思い出しても、映画「Wの悲劇」は日本映画屈指の名作であると思う。澤井信一郎の演出も素晴らしいが、いろんなアイディアを盛り込んだ荒井晴彦の脚本が素晴らしいのだ。

 角川映画が産んだ、奇跡の1本であると思う。

 小林さんのエンターテインメント批評は的確だし、鋭いし、お笑い(かつて小林さんはこの言葉を嫌っていた)から文学まで、印象批評ではなく具体的に、ここがこうだから素晴らしい、駄目だ、と指摘する。そのへんの駄目評論家とはまったく違う。

 具体的な指摘が出来なきゃ、評論じゃないよね。そして小林さんは小説家だし、シナリオもコントも書いたことがあるから、実作者として、「あそこをこうすれば良かったんじゃないか」とまで書く。だから、読んでいてとても勉強になる。

 

 今、小林さんは、往時のキレがなくなってしまったように感じるが、ご年齢を考えれば、仕方がないことだろう。

 しかし、60年代から始まった小林さんのエンタメ論評は50年に渡って鋭さを失わず、的確だった。これは、凄いことである。もっともっと評価されるべきだと思う。

 まとめて読み返して思うのは、今は古今亭志ん朝イチオシで立川談志を否定しているのに、以前はそうではなく、談志も積極的に評価していた。そして、ビートたけしを物凄く評価し、とんねるずも愛している。キョンキョンの魅力を正当に評価しているし……やっぱり、おれは、小林さんの本を読んでいろんな事を学んで来た、と思う。

 もちろん、小林さんの評価がすべてではない。映画に関しては、小林さんとは違う評価をすることが増えてきた。しかしやっぱり、「心の師匠」がどう評価しているのか、気になる。


 徳間Y氏から、旧作「色悪党」増刷の知らせが。新刊当時はまるで話題にもならず、増刷もかからず……Y氏からは官能を書いてくれと言われて、体力的にもう官能は無理ですと答えて……しばらく関係が途絶えていたのだ。去年から増刷されるようになって、4刷。新刊「闇猫・冴子」の効果もあるのだろう。本当にありがたいことだ。

 で。

 「5時に夢中!」を途中まで見る。中村うさぎは退院して口のまわりが良くなった。状態も良くなりつつあるのだろう。

 「黒船特派員」は新人に交代して「外見はイケメンだけど中身は人間のクズ」という若い男に代わったが、この男のクズぶりがなかなか面白い。今後注目されるんじゃないか?

 テニスに行く。

 が、何だか今日はもう、全然駄目。練習の段階から宜しくない。

 試合になったらもっと駄目で、1つくらいいいところがあるのが普通なのに、まるでダメだった。

 がっくり。

 風呂に入って、帰路、曳舟駅間の「上海菜館」でメシ。グラスビールを飲む。美味いっ!

 春巻きをツマミにしようと思ったら、料理の方が先に来てしまった。トリカラの甘酢あんかけ定食。まあまあ。

 グラス1杯だけだったのに、かなり酔っ払ってしまった。

 雨がポツポツ降るなか、帰宅。

 くーたんにご飯を出し、「報道ステーション」を見て、「マツコ&有吉の怒り新党」を見る。ゴレンジャーの「ノリ爆死」に大笑い。当時、ゴレンジャーは面白くて結構見ていたが、ナニが面白かったのか忘れていた。しかし、こういうところが面白かったのね。作り手が面白がっているのが分かる。ワルノリしてるんだよね。「メガネ仮面」を爆殺するのに、「視力検査表爆弾」って、普通思い付かないぞ!

 0時30分頃就寝。

 爆睡。

今朝の体重:90.55キロ

本日の摂取カロリー:2588kcal

本日の消費カロリー:日常生活+702kcal+135kcal/3941歩+113kcal(自転車)

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コメント

夏樹静子さんが「悲憤慷慨」というのは大袈裟で、もっと控え目に表現されていました。しかも何年も経ってからです。

映画『Wの悲劇』は原作の批評にもなってないし、踏み台にしたわけでもなく、劇中劇という形で閉じ込めて、まったく関係のない話にしてしまいました。
おそらく監督並びに脚本家は、好きな(文芸的な)映画を撮りたいけれど、それができず、たまたま提示された『Wの悲劇』の映画化に飛びついただけで、端から原作に対しての興味すらなかったと思います。
興味があったら、あんな形にするわけがありません。
そもそもあの映画の内容は原作『Wの悲劇』を必要としていません。オリジナルで作ればよいのです。必要なのは資金だったのでしょう。
原作に対するリスペクトもまったく感じられませんでした。

原作と映画は別物であるというのは分かります。ただ、この場合には当てはまらないのではないでしょうか。
もう一度書きますが、原作を劇中劇にしてしまって、映画の本筋は違うところにあるというのは、原作を踏み台にして映画を作るというのとは違います。原作映画化のための資金を欲しくて、それを得たら、あとは原作とは関係なく好き勝手をやったというだけのことです。市川監督の例とは、まったく違います。批評になってないばかりでなく、原作をおとしめる映画にしたというわけでもありません。ただ資金のために利用しただけとしか思えません。
できた映画が素晴らしいものであっても、原作をないがしろにしたこととは別のことです。いくら素晴らしい映画であっても、映画史に残る傑作であっても、原作に対して、原作者に対して、ひどいことをしたことに変わりはありません。

そして、あの映画がそんなに素晴らしいものだったのか……ぼくにはまったくそうは思えなかったのですが……まあ、怒りながら観ていたから、正常な判断はくだせなかったかもしれません。

観ていて、これはアーウィン・ショーの小説にそっくりだなあとも思ってました。ただ、盗作ではなく引用、または踏み台にしたのだという説にはうなずけるような気がします。(読み直していないし、映画も一度しか観てないので、断言はできませんが)

えー、自分のコメントを読み直して、市川監督が「鍵」をおとしめたと誤解されるといけないので、捕捉します。
おとしめたというのは、市川監督のこととは関係なく、ある原作を映画化した際にひどい結果になってしまった場合です。
それは、監督や脚本家などの力が足りなかったので、仕方がないことです。もしぼくが原作者でも、あーあと溜め息をつきながら、怒りはしないでしょう。
原作を踏み台にしながら、ストーリーは違った方向に流れて、あげくはまったくの別物になり、それが傑作になっていたら、安達さんのおっしゃるように、アッパレと舌を巻くことでしょう。
ただし、自分の原作が劇中劇だか、劇中小説だかになってしまい、本筋がまったく別の話になっていたら、それが傑作であればあるほど、ガックリくると思います。
どんなことであれ、できた映画が傑作ならアッパレとはいきません。それは、ぼくが「映画屋」ではないからでしょうか。

あしかわ様:
Wikipediaの映画「Wの悲劇」の項目には、『こういう構成になったきっかけは、原作のストーリー(原作では雪が重要なアイテムとなっている)と、映画の撮影時期(夏から秋にかけて)が異なってしまい、そのままでは撮影が困難だったことによる。『麻雀放浪記』のシナリオを手伝ったことで縁のあった和田誠からの「謎解きミステリに名画はない」との言葉も後押しした。また、劇団という設定について監督の澤井は、スターである薬師丸にオーディションで落ちるという役を与えることで人生経験を積ませたかったと述べている』とあります。
僕はこの映画を傑作だと思っているし、原作を読んでいないので、あしかわさんとは立場が異なってしまっている以上、いろんなことへの受け止め方も違ってしまうと思います。
小説の映画化では、いろんな例があります。換骨奪胎が過ぎてしまって、元の原作と似ても似つかないものになってしまった例もあるし、原作に似ているけれども別な内容になっている例もあります。だから……この作品における「大胆な脚色」に抵抗感もないし問題視することもないのだと思います。
脚本家や監督が原作に惚れ込んで、「この小説を映画にしたい!」と思って映画化した場合は、この作品とは違った結果になったでしょう。テレビでのドラマ化作品では、原作そのものをドラマにしていますし。
しかし僕は……総合的に考えて、この脚色は大成功だった、と思うのです。
原作者と原作にひどいことをしてもいいとは思いません。しかし、「いい映画」にするためには、出資者を騙し、原作者を騙し、役者を騙し、ロケ地提供者を騙す。それが映画屋です。
その結果、映画が素晴らしいものになっていたら、映画屋の勝利です。
映画屋というのは、そういう悪党です。映画のことだけを考えている視野狭窄の犯罪者です。
でも、だから、数々の名作が生まれてきたのだと、僕は思っています。
これは「映画至上主義」であって、他の業界の人からは到底、肯定されない生き方だと思います。テレビ屋なら判るかもしれませんが。
で、僕は、そういう映画屋の一員でしたので……。
夏樹さんも、シナリオを読んで意見をする機会はあったはずです。その時に抗議するなり、映画化を断るチャンスはあったはずです。
で、拙作が映画化されて、同じような運命を辿ることを想像すると……シナリオ段階で納得いくまで話し合って、勝算アリと見たら、以後は口出しをせず、原作がどんな扱いをされていても、文句は言わず、映画の成功を祝うでしょう。意見を言う機会があってその時に意見を言って納得したのなら。これはもう、僕が映画屋の一員だったから、です。

それと……映画化された結果について、原作者はだいたいにおいて不満を持つと思います。脚本家が完成した映画を観て、その出来映えに不満を持つんですから!
有名な例が「シャイニング」の結果に不満を抱いたスティーブン・キングが、自分が監督して「シャイニング」を作りましたよね?僕はキング版を見ていないのですが、キューブリック版(僕はキューブリック版も好きではありませんし、往年のキューブリック映画と比べるとかなり落ちると思っています)を凌駕する出来だという話は聞きません。
まあ、以上の事を書き連ねるのは、僕が映画屋に味方したい(というか、僕の出自でもあるので意地でも味方したいのですが)のと、夏樹さんの原作を読んでいないし、映画を観てからも読みたいと思わなかったまま現在に至っているせいだと思います。原作が好きで、「この原作が映画になった!」と思って見にいったとしたら、激怒するだろうと思います。
ただ……もし僕が澤井信一郎だったら……ある程度の予算が組めて、ノリにノッてる角川映画だから豪華キャストも揃えられるだろうし、これは大きなチャンスだ。角川さんは勝負師でもあるし、原作には失礼になるかもしれないけど、話題を呼ぶ脚色にしたらハルキさんはノッてくるに違いない……と踏んで、綿密に計画を立ててプロットを作り、角川さんに見せて、OKを取ってしまうと思います。撮影時期の問題もあるし、原作をストレートに映画にしても、ある程度の映画(ウェルメイドな佳作)にはなっても大化けするものにはならないだろうし……どの時点でアーウィン・ショーの短編のアイディアが出てきたのかは判りませんが。
たぶん僕が沢井さんなら、そしてショーの短編の利用、という絶好のアイディアを得たら……これはもう、爆走してしまうだろうと思います。

うーむ、なんとも凄まじいもんですね、映画屋魂は……。
肯定はしませんが、少し納得しました。沢井監督への怒りが、ちょっとはおさまった気がします。

夏樹さんは、あのころ腰痛や眼精疲労に悩まされていたようなので(そのためじゃないかもしれませんが)脚本は読まれていなかったようですね。だから、あぜんとしつつ、抗議まではしなかったようです。

参考までに『Wの悲劇』がもっとも最近テレビ化されたときの、ぼくのブログです。
http://ashishi.exblog.jp/18370764/

映画監督は、本当に、食えない商売なんです。2つの意味で。煮ても焼いても食えないという意味と、食べていけない、という意味で。
映画監督だけで食ってる人は、今日本で、何人いるでしょう?三池さんくらいじゃないのか、とか思ってしまいます。1本外したら、次がありません。客を入れてヒットを飛ばすか、物凄く高い評価を得るか。
1984年に「Wの悲劇」映画化の話が舞い込んだ澤井信一郎は、ここが勝負だと思ったのに相違ありません。で、多少の摩擦には目を瞑って、大きな勝負に出たのだと思います。普通の監督だと、あそこまで大胆なことが出来たかどうか。軍師の荒井晴彦の後押しもあったのだろうと思いますが。苦節20年の助監督生活の末にやっと監督になれた、その第2作だし。
その結果、常盤新平と夏樹静子さんを怒らせたけれど、なんとか収まって、映画は大ヒットして評価も高くて、日本アカデミー最優秀監督賞も取れたし……。
その後しばらくはコンスタントに映画も撮れていましたが、人気監督とまではいかないし、テレビも撮っていますし。
超多作で超早撮りの三池さん以外で、映画の監督だけで生活出来てる人っているのかなあ……もしかすると、いないんじゃないかと思います。市川さんだって時々CMを撮っていたんだし。
そういうわけで、映画監督のサバイバルは大変です。目の前にあるチャンスは絶対にモノにしなければ、ただの失業者でしかないのですから。
そのチャンスに食らいついた、あの時の沢井さんの判断は、大胆ではあったけれども、間違ってはいなかった、と僕は信じます。
あくまで、映画屋として、ですけれど。

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