映画・テレビ

2017年2月27日 (月曜日)

ラ・ラ・ランド

脚本・監督:デミアン・チャゼル

TOHO CINEMAS錦糸町にて

 お帰り、シネミュージカル!

 久々に、映画のための、舞台の映画化ではない、正攻法の「シネ・ミュージカル」が帰ってきた!

 空間を自由自在に使って、映画のマジックも駆使した、映画ならではの、映画でしか出来ないミュージカル!

 シネ・ミュージカルは、オハナシは単純でいい。その代わりに、スターの踊りを見せ、歌を聴かせる。それも、圧倒的な踊りと歌を!

 しかし、それはまあ、「ウェストサイド物語」で変わってしまった。たわいのないオハナシのミュージカルは廃れて、オハナシが重んじられる作品が主流になり……まあこれはほとんど舞台の映画化なんだけど。

 映画のためのシネミュージカルは、近年、ほぼなくなってしまった。「プロデューサーズ」は元々は映画だけど、舞台化されて大ヒットしたので再映画化された……。

 で。

 この作品は、のっけの「大渋滞したハイウェイ」で大ミュージカルナンバーが展開されて、観客の度肝を抜く。

 うわ、凄い!セットではなく、ロケ。しかも、ほとんどワンカットの超長回し。カメラは寄ったり引いたりステディカムを駆使して縦横無尽に動き回る。

 これ、本物の道路を封鎖しての撮影。

 現場のことを思うと気が遠くなる。

 カットを割らないワンカット長回し。それだけでも大変なのに、タイミングを間違えるとNGになるダンスナンバー。それも群舞!

 シネミュージカルに必須の大ハッタリは、大成功!

 あたしゃ、この場面で、嬉し涙を流してしまった。

 こりゃスゲエや!

 アメリカ人が熱狂するのもよく判る……。

 オハナシは、「やりたい音楽」が出来ずに燻っているジャズ・ピアニストと、オーディションに落ちまくっている女優。その夢を実現する葛藤と、二人の恋。

 いいの。ミュージカルはこれくらいシンプルな話しの方がイイの。なんせ歌と踊りを見るものなんだから。

 だから……もっとタップダンスを見たかった!

 ロサンゼルスの街を見下ろす丘で、そろそろこれは……と思ったところで、ジャストなタイミングで二人がタップを踏み出した、その瞬間にはあまりの歓びに狂喜乱舞しそうになった。

 だけど……。

 すぐ終わってしまった。

 もっとね、有無を言わせぬ圧倒的な踊りが見たかった。

 アステアの優雅な踊りでもいいし、ジーン・ケリーのエネルギッシュでアクロバティックなものでもいい、とにかく、呆然とするようなタップやダンスを、これでもかと見たいんだ!

 ライアン・ゴスリングやエマ・ストーンは俳優であってミュージカルの人じゃないから、そういう事を求めるのは間違っているのかもしれないが……ジーン・ケリーやアステアの映画では、「もっと踊りたい!もっと見て貰いたい!」という気持ちがガンガン伝わってきたので……。

 いや、ダンスの場面はたくさんあった。天文台でプラネタリウムを絡めた幻想的な場面は美しいし、クライマックスの「もう一つの人生」を描く長いナンバーも素晴らしかった。

 けど……。

 「バンドワゴン」のセントラルパークでのアステアとチャリシーのダンス、「雨に唄えば」のあの圧倒的な「ブロードウェイ・バレー」と「巴里のアメリカ人」のロートレックなどの絵画を模したダンスナンバーは、連想できた。だけどこれは オマージュと言うより、チャゼルは完全に消化していて、「引用」でもないし「模倣」でもない、オリジナルなモノにしていたが……。

 とにかく、もっとタップダンスが見たかった!

 もっとね、タップダンスのシーンとかダンス・シーンが圧倒的であって欲しかった。湯水の如くダンス場面が現れて、果てることなくタップを踏んで欲しかった。

 踊りを見たいので、ワンテイク撮りに拘ってカメラを振り回していたのが、ひどくうるさいし。

 踊りの場面でカットを割らないのは正解だが、あんなにカメラが動き回ったら、それはダンスの邪魔になってないか?引き画でどん!と撮って欲しいんだよなあ。

 見終わった後口ずさめるメロディもない。

 ラストは、「シェルブールの雨傘」的な、アンハッピーエンドだし……。

 と、見終わった後は不満ばかりが思い浮かんでしまった。

 それだけ、期待していたんだと思う。

 21世紀の今、ミュージカルを作ると、ノーテンキなハッピーなお花畑みたいな映画は作れないだろうなあ、と思う。そんな夢一杯、みたいな映画は完全なウソだし、夢をばら撒くのがエンターテインメントだと言っても、ウソの度が過ぎたらシラケてしまうから……だから、こういう風にするしかなかったんだし、こうでなければいけなかったんだろう。

 でも……。とは言え。

 映画を見終わって外に出て目に入ってきた「夜の錦糸公園」が、いつもとは違うものに見えたのよね。

 なんだか、希望が詰まった夢の空間みたいに。

 主人公の二人がどこかにいるような。

 これは、「絵に描いたような(現実にはあり得ない)ハッピーエンド」にしなかったからか、と思った。

 主人公ミアは、カネはあるけどつまらない男と結婚して女優としても成功している。えーっ!どうしてピアノストの彼じゃないの!

 ミア夫婦はあるジャズクラブに行くと、そこは元カレ・セバスチャンが経営する店だった。思わぬ形で再会した二人は、「もしもの世界」を夢見る。

 それが……とても素晴らしい。圧倒的に素晴らしい!

 ジーン・ケリーとシド・チャリシーが舞った「ブロードウェイ・バレー」と「巴里のアメリカ人」のクライマックス・ナンバーのように、セットを駆使した力の入った場面が展開して……現実に戻る。

 

 これがあるから、なんだか心に残って、翌日、しみじみと感動して、映画を思い出すと泣いてしまうんだろうなあ。

 ひたすらに、この映画が懐かしい。この映画が、妙に恋しい。

 これはもう、もう一度見るしかないか?

 もう一度見たら、挿入歌に親しんで鼻歌で歌い出すかもしれないし。

 よし、近いうちに、もう一度見に行こう!

 しかし、タイトルの「ラ・ラ・ランド(La La Land)」って、どういう意味が込められてるんだろう?

2016年12月18日 (日曜日)

この世界の片隅に

脚本・監督:片渕須直

渋谷ユーロスペースにて

 ほとんど予備知識を入れず、原作も読まずに、かなり白紙の状態で見た。とは言え、被爆を扱っている事は知っていたので、なんとなく「はだしのゲン」を連想していた。まったく無垢な人たちが原爆という不条理な攻撃に遭って、かなり強い抗議と反戦の意志を、優しい絵で描くような……。

 しかし……。その予想は完全に外れた。

 主人公すずさんの平凡だけど穏やかな暮らしを、ディティール豊かに日々、丁寧に描いていくのだ。

 戦前の広島。今のように豊かではないが貧困ではなく、それなりにアメリカ文化が入ってきて、楽しい日々。

 瀬戸内の穏やかで美しい自然に囲まれて、主人公のすずも穏やかに慎ましい日々を送って「たおやか」に暮らしている。絵が上手で、絵を書くのが好き。19になってもまだ幼い少女のようなすずさん。

 そんな彼女に突然、縁談が舞い込み、呉に嫁ぐ。

 小姑(攻撃的だけど、嫌なだけの悪役ではない)との関係に悩みつつも、畑から見下ろせる呉の軍港に浮かぶ戦艦の雄姿に素朴に感動したりする。

 そんな日々を、穏やかなユーモアを交えて温かく描いていく。

 よく、戦前の暮らしは憲兵や特高警察が目を光らせていて、すぐ捕まって拷問される言論統制と恐怖政治の日々、のように思われたりするが、小林信彦の名著「ぼくたちの好きな戦争」が活写したように、戦前の東京は今よりアメリカ文化に対する憧憬が強くて、多摩川の土手でカーレースが行われたりして、結構豊かで楽しさもたくさんあった。笑いだってエノケンやロッパをはじめとしたモダンな笑いもあった。

 それは、中国戦線が膠着状態になっても、アメリカとの戦争が始まっても、しばらくの間は保たれた。しかし……。戦況が悪化するにつれてすべての物資が不足して、耐乏生活が始まる……。

 日々を懸命に、しかし、楽しく心豊かに生きているすずさんの頭上にも爆弾が降ってくるようになってしまう。

 頭上をアメリカの爆撃機が飛び、高射砲が撃ち落とそうとする。敵機の破片が降ってきて、それで命を落とす人も多かった。

 

 これまで、穏やかな日常を丁寧に描いてきたから、すずさんの生活と観客の気持ちが同化したときに訪れる、戦争の恐怖。

 空襲が始まるときに、庭先に降り立った白くて大きな鷺。「ここに居ては危ないよ」と庭から追い立てるすずさん。その鷺はゆっくりと広島の方に飛んでいく……。

 すずさんは空襲に遭い、義父さんに助けられたが……義父さんは倒れたままで……。

 実は夜勤明けで眠くて仕方がなかったんだというオチがつく。

 この緩急自在の、ユーモアが自然に同居するタッチが素晴らしい。

 普通の生活には笑いがつきものだもの。

 すずさんが呉港をスケッチしていたら憲兵に捕まって家宅捜索される場面も、すずさんにキツい小姑や義母が怒りで(憲兵に疑われるという恥辱をもたらしたすずさんに)身を震わせている、のかと思ったら、のんびり屋のすずさんに「間諜活動なんか出来っこない」から、大真面目な憲兵の言葉に笑いを堪えていた。

 こういう場面の数々があるから、そのあとの、呉大空襲や、広島の原爆投下の描写が胸に響く。

 絵を描く右手は、姪の晴美と共に吹き飛ばされてしまう。

 原爆の直接の被害は免れたけど、実家の両親は死に、妹も体調が悪そうで……。

 一番心に刺さったのは、ラスト近くで視点がすずさんから離れて、ガラスが身体中に刺さったまま原爆投下後の広島の街を徘徊う母子の姿の場面。

 母はすずさんと同じように右手がない。疲れ切って座り込んだまま、母は死んでしまった。ウジが湧くその死骸に縋り付いたままの小さな女の子。

 広島を訪れていたすずさん夫婦が落とした海苔巻を拾う、その子。落としたよと差し出すと、「食べてええよ」と言われて食べると、まるで捨てられた子猫のようにすずさんに身をすり寄せる、その子。

 この場面は、抑えたタッチで描かれるからこそ、悲しい。悲しくて仕方がない。

 号泣はしない。

 しかし、じわじわきて、止めどなく涙が湧いてきて、客席から立てなくて、困った。

 とにかく、じわじわと万感胸に迫って、堪らない。

 しみじみと泣く、というのでもない。なんだろうね、この感情は。

 素朴に感じたのは、「生きていることの幸せ」「生かされている事への感謝」という気持ち。それを思うと、一切のワガママとかこだわりとか、モロモロなものが消えていく。浄化されたような、まあ、魂の浄化って、そんなに簡単なものではないと判っているけど、ほんの少しだけ、そんな気持ちになれた。

 プログラムを開くと、「生きるっていうことだけで涙がぽろぽろ溢れてくる、素敵な作品です」とすずの声を担当したのん(能年玲奈)の言葉が載っていた。

 彼女あってこそ、すずさんには命が吹き込まれて、「のんびりほんわかしているけど、あんまりひどいことになったら我慢しない」という生きた人間になった。そして、こういう人が戦争に巻き込まれてひどい目に遭う不条理を、心の底から憎みたくなる。

 プログラムによると、のんは、実に的確に役を把握していたそうだ。これは天性のものだろう。

 

 思えば……今、シリアでは、この映画で描かれたことと同じ状況で、シリアのすずさんが毎日犠牲になっている。それを思うと……。

 この作品は、過去の、昭和8年から21年の「過去」を描いたものではない。今も同じ事が世界のどこかで起きている……。

 タイムマシンを使って当時の写真を撮ってきたかのような綿密な再現をした、徹底した取材をした片渕監督とスタッフには、執念を感じる。この作品はきちんと作らなければならないと思ったからには徹底する。

 凄いことだと思う。

 小説と違って映画やアニメは、すべてに対して具体的な描写が必要になる。家も道路も衣服も食べ物も……。そのすべてをコツコツと調べ上げた努力と根性に敬服するし、その綿密な調査取材から生まれた描写が、物語を推進している。リアルな描写が物語を生み、深い意味を感じさせる。

 

 丁寧に描いているだけかと思えば、シネカリグラフのような技法も使ってすずさんの状況の激変を端的に表したり、多彩な表現を使いきっている。

 粘りに粘った甲斐のある、しかし監督の執念を画面には一切見せない、優しさと愛情溢れるタッチ。だからこそ、この作品は、しみじみとした感動を呼び、心に残り、思い出すと涙が溢れてくるのだ。

 声高にテーマを叫ぶより、こんな形で静かで優しいタッチでしみじみと語られる方が、効く。観客は、すずさんと一緒に戦前の平和な昭和を生き、戦争の影が徐々に濃くなる不安を覚え、空襲の恐怖を共有し、原爆に衝撃を受け、戦災孤児を保護する。

 この作品だからこそ、「一緒に生きて体験できた」という気がする。これはバーチャル以上のバーチャルではないか。魂がスクリーンの向こうに飛んでいったのだから。

2016年8月 3日 (水曜日)

「シン・ゴジラ」(ネタバレ注意)*追記アリ

総監督・脚本・編集:庵野秀明

監督・特技監督:樋口真嗣

准監督・特技総括・B班監督:尾上克郎

109シネマ・グランベリーモールにてIMAX上映

 この巨大な作品の感想を、どこから書けばいいのだろう?

 第1作の「ゴジラ」、「モスラ」、「ラドン」以外の、怪獣が2匹(2頭?)以上出て来る怪獣映画はプロレスみたいなもの(「キングコング対ゴジラ」と平成ガメラは除く)で、特に平成ゴジラの「VSゴジラ」ものはヒドかった。しかし、大映が低予算で「平成ガメラ」シリーズを作り、ビックリした。センスがあって怪獣映画が判っている人が作れば、まだまだイケるぞ!と思った。金子修介監督は東宝ゴジラも手掛けて善戦はしたが、どうしても旧弊な勢力に負けたのか、まるで古典歌舞伎みたいに「ゴジラはこういうもの」という意味不明なお約束を押しつけられたぶん、詰まらなかった。他の作品はもう……監督を知っているので言いにくいが……まるでダメだ。珍妙な新兵器が突然登場したり、映画としても出来が悪い。これは監督だけのせいではない。くだらない脚本しか書けなかった脚本家の責任でもある。それと、怪獣オタクへの遠慮なのか何なのか、着ぐるみに拘る旧弊さ。「東宝のゴジラは着ぐるみでなければならない」と誰かが言ったか書いたかしていたと思うが、なんじゃそりゃ、だ。円谷英二が生きていたら、いつまでも古い技術を有り難がって使い続けてはいなかっただろう。

 で。

 本作は、そういう「東宝の旧弊なあれこれ」をすっぱり切り落として、フリーハンドを得たのかどうか定かではないが、庵野秀明がかなり自由に、自分の世界を構築した。

 そして、それは、極めて素晴らしく、見事であり、物凄い。

 怪獣映画でも、映画だ。まず映画として優れていなければお話にならない。しかし一部の怪獣バカは、怪獣が出てくればいいという幼児退行みたいなことを真顔で言う。こういうバカに関るから東宝怪獣映画は駄目になり続けたのだ。

 映画として駄目なものは、怪獣映画としても駄目。至極当然のことだ。

 そして。本作は、「日本に突如巨大不明静物が出現したらどうなるか」という命題をリアルに、考えられる限りリアルにシミュレートした。

 国内政治・国際政治・軍事、すべての知識を動員して、リアルな、ヒリヒリした世界が展開される。ここには、ゴジラが愛嬌を振りまく余地はまったくない。

 最初は楽観論に縋ろうとする政府高官(閣僚や官僚たち)。しかし、一人だけ現実を直視するリアリストが、政務担当内閣官房副長官の矢口(長谷川博巳)。総理補佐官の赤坂(竹野内豊)と組んで、駄目な政治家をなんとか操縦しながら難局に当たろうとする。

 この駄目政治家と駄目官僚の会議が「あるある」で、情けないけど笑える。官僚の果てしない「法律論議」(これは必要ではあるんだけどさ)に、駄目な御用学者のこんにゃく問答。

「楽観論に縋って現実を見なかった戦前の軍部と同じ轍を踏んではいけません!」

 と矢口は吠えるが、最初は独り相撲。しかし、彼の言うことが正しいとハッキリしてくる。

 巨大不明生物は、最初登場した時じゃ妙にキモカワイい顔で、「おいおいこれがゴジラかよ」と思ったら……どんどん変容していく。

 そして……ついに立ち上がって、あの咆哮!そして、あの「音楽」が!

 コントラバスの音をゆっくり再生したゴジラの咆哮と、伊福部昭の「ゴジラのテーマ」「自衛隊のテーマ」は、日本人のDNAに組み込まれている。これがないと、どうしても画竜点睛を欠くというか……締まらない。

 そういうところを、庵野さん、熟知している。ここだ、と言うタイミングで鳴り響く、不滅の伊福部サウンド!

 あたしゃ、泣いたね。泣きましたね。リアルな自衛隊がリアルに出動して果敢に攻撃するミリタリーなところとか、ツボにどんどんハマって、もう、感涙に噎んだ。

 平成ガメラは民間人が主人公だったけど、今回は政府の中枢にいる人物が主人公だから、政治や安全保障や軍事に関するワクワクするようなビッグワーズがポンポン飛び交う。

 そして遂に、アメリカから大統領特使が!

 これが石原さとみなのが少々「?」。ハーフかクオーターなんだから、石原さとみじゃないんじゃないの?ローラとかベッキーじゃアレだろうけど。

 しかし、石原さとみは、国際政治というかアメリカの冷徹な方針を伝える。とにかくゴジラは日本で駆除する、と。そのためには核兵器も使用すると。

 リアルな描写は、ゴジラに襲われる鎌倉・横浜・東京の街についても徹底している。

 ふっ飛ぶ京浜急行!

 逃げ遅れる婆さん。

 逃げ惑う群衆。

 避難するための無限のバスの列。

 どこかにやっと避難した避難民……。

 もうね、このへんは、あまりにリアルすぎて、見た直後はそうでもなかったが、時間が経つと、恐ろしくて哀しくて不安で……もう、本当に、怖い。

 本作のゴジラは空撮や仰角のショットを多用して、ゴジラの巨大さを的確に映し出しているし、逃げる人たちの頭上をゴジラの尻尾が通過するという「恐怖のショット」(これって「続・三丁目の夕日」に出てきた恐怖のショットに似てないか?いや、似ていてもいいんだけど)は、本当に迫力がある。

 ゴジラ自体も本当に怖いが、ゴジラがもたらす災害の描写が、311の大災害を想起させて、心から恐ろしい。しかも……ゴジラは放射能をまき散らしている。第1作からゴジラは放射能を撒くことになっているのに、これについてきっちり描写したのは今作が初めてではないだろうか?

 思えば、第1作では、戦争(都市への空襲)の恐怖が残っていて、「また疎開か?」という生々しいセリフがあった。

 その意味で、第1作の心をきちんと継承したのは、本作だろう。広島・長崎、そして第五福竜丸事件と、核への恐怖が生々しかった時代に作られた第1作と思いを一にした作品がやっと現れたのだ。これは、不幸なことなのだけれど……。

 首相はやっと、ゴジラに対する全面攻撃を決意するが、立川に避難しようとしたヘリがゴジラによって落とされて、主要閣僚は全員死亡。残された若手が仕切るしかなくなる。終戦直後の日本政府を彷彿とさせる展開。首相臨時代理に推されたのは、唯一生き残った「年痕序列中継ぎ穴埋め」の農水大臣(平泉成)。アメリカに押されまくって、多国籍軍がゴジラを攻撃するために日本に攻め込むことを承知せざるを得なくなる。

 多国籍軍にいいようにされてメチャクチャにされたイラクやアフガン、シリアの人たちの不条理な気持ちが少しだけ判った。シミュレーションとはいえ、多国籍軍に好き勝手される情けなさ!

 しかしここは多国籍軍を受け入れた方が、「その後」の援助も受けやすい、と国際通の赤坂の冷徹な判断。しかし、そうは言っても……。

 各省庁のはみ出し者が集められた「対策チーム」の面々が、いい。津田寛治や高橋一生、市川実日子に松尾諭とか、いい役者を集めている。彼らの不眠不休の献身的働きによって、徐々に「対ゴジラ新兵器」が出来上がっていく……。

 それは、「空飛ぶ鏡餅」みたいな珍奇な秘密兵器ではない、地に足の付いた、きちんとした新兵器。ゴジラの生態を研究した結果の唯一の方策。しかしそれは完成はしたが、必要分の製造が追いつかない。

 ゴジラへの核攻撃まであと1日。ダメ総理だと思われていた元農水相は、実は、誠実でオノレを棄てられる人物だった。(平泉さん、儲け役!)

 国際政治バランスを巧妙に利用して、フランスを抱き込む外交戦。

 そして……。

 新幹線や「E電」たちの特攻(これは……無人とはいえテッチャンとしては胸が痛む)のあと、福島第一原発の緊急非常冷却のあの光景を思い出す、ゴジラの口に向かっての一斉噴射!

 この作戦が終わるまで駐日フランス大使に頭を下げ続けた首相臨時代理(元農水相)の姿を思い出すと、フィクションなんだけど、号泣してしまう。

 こういう「ボンクラに見えていたけど危機に陥ると我を棄てる立派な政治家」と「はみ出し者ゆえに有能な官僚や研究者」、そして、「死を恐れない自衛隊員たち」によって、日本は何とか救われた……。

 つい最近経験したようなことで、それが頭の中でフィードバックして、激しい感動を呼び起こす。

 政治家や官僚のやり取り、自衛官たちのやり取りや行動のリアルさ。

 映像のリアルさ。臨場感が半端ない。

 特撮的にも、ドラマ的にも、アメリカ的な妙なヒロイズムを廃した、リアルな作品。

 こういうドラマに邪魔な、「家族の部分」がまったくなかったのが素晴らしい。日本映画でもアメリカ映画でも、「家族の代表」が出てきて映画の緊張感をぶった切ってしまったり妙に矮小化させてしまったりすることがあるのだが、今回はそれがないのが本当に素晴らしい。それに、石原さとみと主人公が恋に落ちたりとか、昔の恋人だったとかという面倒くさい要素もなかったし。

 これは、戦争映画なのだ。戦争映画に愛とか家庭とかは邪魔でしかないのだ。

 ミリオタによれば、自衛隊関係の描写はとても正確なのだそうだ。

 そういう正確さが壮大なウソを支える。

 この作品をきちんと理解するには、あと数回見なければならない。たぶん、見るたびに新しい発見があって小躍りするんだろう。

 この作品は、「ゴジラ第1作」以外のすべての怪獣映画とはクラスが違うくらい、はるかに凌駕した。もちろんアメリカ製のゴジラよりも比較にならないほど素晴らしい。

 ドラマ部分をきっちりと描き込んで嘘くさくならず、とても見応えがあった。役者の芝居にも熱が籠っていて、本当に「入魂の演技合戦」だった。

 こういうドラマは、民間人よりも、どうしたって、政府の中枢にいる人物が主人公になるべきだ。しかしきちんと描けずに嘘くさくなって映画全体が漫画みたいになってしまう場合もある。日本映画はこの辺が本当にヘタクソだったが……本作では、見事に描ききっている。

 演出部(だれが現場で監督していたのか不明なんだけど)の勝利だ。

 本当に素晴らしい。

 こんな凄い映画に巡り会えて、死ぬまでに見ることが出来て、心の底から幸せだ。

 まだまだ書き足りないが……。

 ネットでも大絶賛の嵐。貶そうと思えばいろいろあるだろうが、それよりも素晴らしいところの方が圧倒的に多いんだから。

 故岡本喜八監督が写真出演していた。ああ、岡本喜八!


(追記)

 「ゴジラ」第1作のゴジラは、恐怖の象徴だった。それは誰の目にも明らかだが、原水爆のメタファーだった。というかゴジラは放射能をまき散らす「放射能の権化」。この作品は作られた数年前には2発の原爆が日本に落ち、そして第五福竜丸事件があった。どうしたってゴジラは「核の脅威」そのものな存在なのだ。

 そして……今回の「シン・ゴジラ」。このゴジラが物凄く恐ろしいのは、第1作から64年。やっと、第1作の続篇というか、第1作を忠実に継承する作品が現れたからだ。

 2011年の東日本大震災と福島第一原発事故。福祉な第一原発から放出される放射能はまだまだ止まらないままに日本とその周辺を汚染し続けている。

 ゴジラ第1作と同じくらいの「核の脅威」を感じ、そのメタファーとしてのゴジラが、ハッキリと出現したから、今作のゴジラはたまらなく恐ろしいのだ。

 作品ではハッキリとは言っていないが、誰が見ても、福島第一原発事故の恐怖を想起させる。その基本構造とテーマ、メッセージは第1作と同じだ。

 逆に言えば、第1作からあとは、核の脅威は薄れ、第三次世界大戦の危機も遠ざかり、ゴジラが「核の恐怖」のメタファーである必然性がなくなってしまった。

 平和な時代には、ゴジラは他の怪獣とプロレスを演るしかなくなってしまったのだ。

 ゴジラを恐怖の象徴と思う時代が、幸せかどうか。

 ゴジラが詰まらない時代の方が、人間は幸せなのかもしれない……。

2016年6月28日 (火曜日)

「マネーモンスター」の感想(ネタバレあり)

原案:ジム・カウフアラン・ディ フィオール

脚本ジム・カウフジェイミー・リンデンアラン・ディ フィオール

監督:ジョディ・フォスター

TOHOシネマズ錦糸町にて

 ジョディ・フォスターの監督第4作。

 とても面白かった。以前けっこうあったけど最近少なくなっている、往年の筒井さんが得意にした「擬似イベント」もの。「狼たちの午後」とか「ネットワーク」とか、現実が少しずつ狂っていって……というパターンだが、今回はズバリ、「株式市場」がテーマ。

 まず、脚本が秀逸。マジに作れる題材をエンターテインメントに仕上げたのは凄い。プロデューサーにも加わっているジョージ・クルーニーが作ると、かなり硬派のマジな社会派(「グッドナイト&グッドラック」とか「シリアナ」とか)になるが、そうしなかったのは大正解。

 ジョージ・クルーニーが「アメリカの宮根」みたいにテキトーで調子がいいだけの司会者リー・ゲイツに扮して、投資を煽って「この株を買わないヤツはバカ!」みたいなことをやっているが……。

 アメリカでは、本当にこんな番組を放送してるんだろうか?あんまり現実から乖離したぶっ飛んだ番組を設定すると観客はシラケてしまうから、似たような番組はあるんだろうなあ。このへん、町山さんの解説を聞きたいけど。

 生放送中のスタジオに、司会者の言うことを信じて全財産を投資して見事にスッてしまった男カイルが、拳銃と「爆弾チョッキ」を持参して乱入し、リーを人質にとって放送の継続を要求し、番組とリーを糾弾しはじめる……。

 株で損するのは、これはもう自己責任と言うしかない。全財産を投資して一文無しになって……と言うのは大恐慌の時に起きた現象で、あの時も「空前の株ブーム」で、みんながこぞって借金までして株にカネを注ぎ込んで……大暴落。大変なことになった。戦争も起きた。

 今でも、株で大儲けした成功者の話が広まると、我も我もと投資して、大失敗というパターンは繰り返されている。

 投資の失敗については、同情は出来ない。ただ、株って、資本主義の象徴だよね、とは思っている。そして、株は上がったり下がったりするんだから、それも判らないヤツは投資、それも全財産を投資なんかするなよ、と思う。

 しかし、この映画では、「アイビス社の株価が暴落したのは、システムのバグがあったからだ、それはどうしようもない」とアイビス社のCEOが言い訳する。

 ここで1つ疑問があるが、株価って、株式市場が決めるでしょ?システムのバグって、株のトレードのシステム?ってことはニューヨーク株式市場のシステムって事?いや、映画ではアイビス社のシステムと言っていたけど……アイビス社が、自社株を売り買いして利益を出していたけど、その売り買いシステムにバグがあったという意味か?

 実際、近年の株価の暴落はコンピューターの自動トレードが悪影響を及ぼして、システムの設定の何かが作用して、ちょっとの株価下落が「一斉売り」のサインになってしまって大暴落が発生、と言うことが何度かあった。

 ああそうか。映画の冒頭で、「マネーモンスター」という番組の中で、アイビス社について簡単な説明をしてましたな。超高速トレードのシステムを開発したことで、他人より早く「勝機」を掴めたので成功を収めてきた、と。

 で、8億ドルの損失を出して、アイビス社に投資していた多くの顧客は大損したと。

 しかし「システムのバグ」って本当か?実はウラがあるんじゃないか?と真実を探っていくのが1つのスジ。

 それに、スタジオの中で「みんながアイビスの株を買えば株価は上がる!さあ、みんな買ってくれ!」と銃を突き付けられたリーが煽るが、逆に株価は下がってしまうとか、そういうくすぐりも交えていく。

 そして、雲隠れしていたCEOがウラでやっていた事実が判ってくる。

 バグを理由にしていたのはウソ(韓国人のプログラマー……なんか凄く怪しいぞ……が、「金額が1つの銘柄に集中しない設計になっているから、こんな事は起きえない。これは人為的だ」と証言)で、損失した8億ドルは別のことに投資されていて、その投資が失敗して「解けてしまった」のだと判ってくる。

 そして、リーが着用させられていた「爆弾チョッキ」の爆弾はニセモノだと判るが、この爆弾の起爆装置を警察のスナイパーが狙っていることも知る。つまり爆発させないためにリーは撃たれようとしている!

 その後の二転三転する皮肉が効いた展開が見事。

 リーは撃たれないように犯人カイルを盾にするし、爆弾がニセモノだと判っても、本物だと信じ込ませて、利用する。

 この辺で、お調子者の司会者リーも、「真相を暴きたい」ジャーナリストの本能に目覚めているし、ここまで見事に番組を引っ張り司会者の安全を確保してきたディレクター(ジュリア・ロバーツ)も、あらゆる手を駆使して「隠された事情」を暴いていく。

 この辺の過程を短く見せた手腕は見事だ。腕利きのハッカーがレイキャビク在住のアイスランド人というのも愉快。

 で、悪の権化のように描かれてきたアイビス社のCEOだが、彼は「まったく違法行為をしていない」。不適切だが違法ではない。どこかの元都知事が言ったようなことを言う。

 CEOはストライキ中の南アフリカの鉱山の株を安値で買って、ストを終わらせて株価が上昇したところで売って、大儲けしようとしたのだが、ストライキはいっこうに終わらず、損失が明るみに出てしまった、と。

 これは、資本主義経済のシステムとしては、CEOは別に間違ったことはしていないのだろう。ウソの説明をしたけど。

 しかし、犯人カイルは狙撃されて絶命。カイルの心情も判って友情すら芽生えかけていたので、リーは怒り狂う。

 このラストは苦いし、いろんな問題点も正面から突いている。

 監督のジョディ・フォスターは、「金融を描くのではなく、人間の弱点を描いたつもり」だとインタビューに答えたらしい。

 問題は重層的で、たぶん、正解はない。登場人物の細やかな感情も描き出し、ギャグもあり、サスペンスもあり、ちょっとだけカタルシスもあるが、苦い。この苦さが、いい。すべて解決してハッピー!なんてことはスペオペの世界にしかない。(苦い結末のスペオペも見てみたいけど)

 こういう作品は、尊敬するし、自分もモノにしてみたいものだ。

 現実を見据えて、問題点を炙り出しつつ、根はマジメだがエンターテインメント精神旺盛に、面白おかしく描いていく。

 これぞ、映画だと思うし、娯楽作品だと思う。

 お見事!

 この一言に尽きる。

2016年6月22日 (水曜日)

「10 クローバーフィールド・レーン」の感想(☆ネタバレバレ)

脚本:デイミアン・チャゼル/監督:ダン・トラクテンバーグ

錦糸町楽天地シネマにて

Viamain

 いや~~~~~頭のいい映画!

 よくぞ考えついたなあ!素晴らしい!

 恋人との別れを決めて、部屋を出る主人公。

 車に乗ってかなり遠くまで走っている。昼間に出たのに今はもうすっかり夜。

 カーラジオをつけると、電力供給が不安定になっているとか、なにやら気味の悪いニュースが……と思っていると、事故かなにかで車が横転!

 タイトル。

 気がつくと、主人公は地下室のような部屋で、点滴されて足を繋がれている。

 やがて現れる太った初老の男。

 男は「逃げても無駄だ。外では生きられない」と言う。

 この変態かもしれない男に監禁され続けるのか……と思ったら、別の若い男が。この男は「このシェルターを作った。外に居て逃げてきた」と言う。

 男は主人公を拉致監禁して自分のモノにしたい変態か?しかし、そんな風でもないように思える。

 初老の男が言う通り、外には得体の知れないモノがいて世界は死滅してしまったのか?このシェルターに入れてくれと逃げてきた女の存在。しかしこれだって、すべて「グル」かもしれないぞ。

 若い男は「逃げてきて助かった」と言ったが、それだってウソかもしれない。

 時折響く大きな音に、振動。ヘリコプターのような音。

 外で何が起こっているのか判らない……。

 と、全体の2/3くらいはシェルターの中でのみ話が展開する。

 出演しているのは、ジョン・グッドマンによく似た男(いや、本物のジョン・グッドマンなんだけど……最近のジョン・グッドマンは「いい人に見えて実は……」という役が多いなあ)に、タンクトップが魅力的で瞳が理知的にくるくる動く、美人ではないけど可愛いメアリー・エリザベス・ウィンステッドと、もう一人ジョン・ギャラガーJr.の3人と、シェルターに助けを求める顔が変形してしまった女。

 この四人!

 シェルターのセットはよく出来ているけれど、物凄いセットではない。

 いわば、密室劇。

 予想では、この密室劇は30分くらいで切り上げて、シェルターから出た3人が、未知の生物から逃れる展開になる!と確信していたのに……。

 シェルターから全然出ない。シェルターに攻撃が仕掛けられるとか、逃げてきた人たちとの攻防があるとか、シェルターの窓に突然死体がぶら下がってくるといった「スピルバーグ的ショッカー演出」もない。

 なのに、ハイテンションの緊張はまったくダレることなく、ずっと維持される。

 この演出は神業だよ!長編初監督とは思えない。凄い。

 果たして彼らの言うことは本当なのか?外に出たら本当に死ぬのか?外は本当に死の世界なのか?

 メアリー・エリザベス・ウィンステッドのタンクトップ姿も魅力的だが、それだけ眺めていても飽きる。しかし、不気味さはどんどん増していく。

 外がどうなっているのか、知りたい!と観客は完全にヒロインに同化して、ジリジリする。と、同時に、デブのオヤジを悪人とも思えない。で変態チックなところもあるけれど、不格好な救世主、人類を救った神のような存在に違いない。

 今までのこの種の映画の定石は、無垢な主人公が一癖ある救世主を疑うが、最後に理解して感謝する、というパターンだ。この作品も、そのパターンに忠実だ。

 ただ、しかし……いっこうに、このクセのあるオヤジが決定的に救世主になる場面が訪れないし、疑惑が深まる伏線がどんどん張られてるばかり。

 この映画は、どうなるんだろう?

 絶対に、最終的には未知の生命体と戦う、もしくは逃げるんだろうけど……あれは予告変容のウソで、それは主人公の減塩だった、と言うオチだったりして?とか、こっちも疑心暗鬼になっていく。

 

 主人公は、脱出する事を選択して、防護服を自分で作る。ここで、主人公が服のデザイナーらしいと言う伏線が効く。

 主人公の動きを察知する男。

 ここで、男の本性が明らかになる。男は、主人公を監禁したい変態なのだ!しかも主人公以前にここで死んだ若い女がいたのは確定的……。

 脱出計画は露見して若い男は男に射殺されるが、主人公は逃げる!

 そうして、なんとか外に出る。

 鳥が飛んでいる。

 虫が鳴いている。

 と言うことは……。

 手製の防護服を脱いでみるが、息はできるし、なんともない。

 ではやっぱり、あの男の芝居だったのか?

 だけど、この映画でそういうオチで終われるのか?

 と思ったら……。

 予想をはるかに超えた、実に気味の悪い、怖い怖い怖いこわい未知の生物がやって来る!

 金属製の飛行船かと思ったら、それは生物!ギーガーが造形したエイリアン形の、最高に気味の悪い生物!

 こう来たか!と嬉しくなる。こう来なくっちゃねえ!

 主人公は、たった一人で、この未知の生物と戦う。

 そして、勝つ!

 シェルターのあった場所から車で脱出する主人公。カーラジオを聞くと、人類は死滅していなかった。まだ生き残って「未知の生物」と戦っている。バトン・ルージュは安全を確保したがヒューストンは戦闘が継続中。戦闘の経験者を求めている。

 ヒロインは、迷わずヒューストンへ!

 しかし、ロングショットで雷鳴に一瞬照らし出されるのは、主人公がやっつけたのと同型のアレのシルエット……。

 上手すぎる!

 この規模ならば、充分、日本でも作れるはず。でも、作れない。この発想がなかった。こういう話を生み出せなかった。

 いやあ、アメリカ人は凄いなあ!と素朴に、心から感嘆する。

 そうして、この素晴らしいアイディアを、確実に、そしてもっと面白く映像化できる才能!

 もう、完全に脱帽だ。ひれふする。

 前作(感じは似ているがストーリーとしては関連はない)も、とても頭のいい映画だった。しかしこの映画は前作よりもっと頭がいい。

 前作の大ヒットを受けて続篇の製作が発表されたが、全然音沙汰がなかった。調べると、早々に「いいアイディアが出ない」という理由で続篇の製作はストップしていたらしい。

 ずいぶん待たされたけど、待った甲斐があった。

 果たして、「クローバーフィールド三部作」に発展するか?

 メアリー・エリザベス・ウィンステッドは素晴らしい。B級ホラーのヒロインとしてキャリアを重ねていたらしいが、魅力爆発。

 しかし、この映画が一筋縄ではいかなかったのは、やっぱりジョン・グッドマンの功績だろう。善人なのか悪人なのか判らないこのキャラクターは本当に得がたい。コーエン兄弟の映画では常に得体の知れないところがある人物を演じていた気がするのだが、その役柄の集大成という感じ。凄い。

2015年10月24日 (土曜日)

天空の蜂

脚本:楠野一郎/監督:堤幸彦

錦糸町楽天地シネマにて

 アクション・パニック映画としては、もっとうまく出来ただろう、とどうしても思う。

 しかし、そういう「揚げ足取り」をして、この作品の価値を下げてはいけないと思う。この映画の欠点だけをあげつらった結果、作品自体が否定されてしまうのはあまりに惜しいからだ。

 原発(この作品では「高速増殖炉」だが)の安全性について正面から扱ったメジャー作品はこれまでなかったのだから、この作品が先鋒となって、どんどん作られるには、この作品の意義をまず高く評価しなければならない。

 福島第一原発の大事故がなければこの原作は映画化されることなく、東野圭吾の小説としては埋もれた扱いのままだっただろう。あの事故によって、やっと、原発の安全性について「安全神話」が取り払われて、キチンとした議論が出来るようになってきた……と思いたい。

 

 反原発映画、といわれてしまわないように、この作品は周到な準備がされている。高速増殖炉を研究開発する意義と価値を本木雅弘に語らせて、それはそれで説得力がある。ただし、実際の「もんじゅ」は事故続きでまともに稼働したことはほとんどないし、海外は「夢のエネルギー」である高速増殖炉の商業ベースでの開発をほぼ止めてしまった。その中で、日本だけが毎年巨額の予算を付けて事業を続けている。

 この作品は1995年現在の状況の時代感に基づいているので、高速増殖炉の研究開発は順調のように描かれている。

 そして、原子力開発関係者への「迫害」も描かれている。地方の原発で作られた電気を消費するだけの都会人への批判も出てくる。

 それらは、「絶対安全な原発などない」という強いメッセージを中和させるためのエクスキューズだったのだろう。もしくは、「この作品は中立です」というスタンスを表明したかったから、両方の言い分を併記した形にしたのか。

 まあ、一方を一方の論理で断じてしまうのは、作品にイデオロギーが付いてしまう可能性がある。しかし、原発が安全かどうか、理屈ではなく、現在、日本にある原発が本当に安全かどうかを論じるのはイデオロギーではなく、極めてリアリティのある現実の問題であって、理系的にイエスかノーかで答えられる(付帯条件が付くから簡単にイエスかノーか言えない、ということになるのだろうが)問題だ。ここに思想とかイデオロギーが絡んでくることはないはずなのだ。本来は。

 しかし、原子力というものには物凄い利害関係が絡んでいるし、政治も深く絡んでいるので、理屈ですっぱり割り切れなくなっている。

 そのへんを突つくと、本気で大変なことになるのだろう。

 しかし、今まで、誰も触れなかった「原発の安全性」に正面から向き合った、初めての作品が本作だ。5年の歳月を掛けて原作を書き上げた東野圭吾も偉いが、巨額の製作費を掛けて超大作として製作した松竹やスタッフも偉い。

 作品の意義は大変大きいモノがあるが……。

 でも、やっぱり、パニック・アクション映画(クライシス・ムービー)として鑑賞すると、「おれならこうするなあ」と思える箇所が結構あるのだ。

 まず、江口洋介のキャラクター。本来なら、技術者の枠を越えて、もっと活躍すべきだろう。まあ、アメリカ映画なら、ダメな夫・ダメな父親として登場した主人公が、危機を救う大活躍を見せて、家族の信頼と愛を勝ち得る、というパターンで描いてしまうだろう。

 この作品も、けっこうその線でやろうとしているが、「主人公はヘリの設計を担当したサラリーマン技術者」というリアルな枠からははみ出ない。ブルース・ウィリスみたいな大活躍はしないのだ。

 それはいい。アメリカ映画の派手な嘘や主人公の大活躍はあまりに派手すぎてシラケることも多々あるから……。

 しかし、江口洋介の夫婦の描き方は、下手くそ。かなり紋切り型だし、息子がヘリに乗っているという危機的な状況の時に、不満たらたらの奥さんが亭主批判をするか?するだろうけど、今言うか?と思ってしまう。この奥さんの描き方は、かなり下手くそというかリアルに考えても違うんじゃないか、と思う。奥さんを演じた石橋ケイ(「深夜食堂」で男前でハードボイルドな女探偵を好演していたのに)が、どうにも上手くない。ヒステリックで嫌な女でしかない。この役がもっと存在感あるキャラクターになっていたら、と思う。

 そして、こういう映画には「状況を混乱させてしまう」人物が必要だが、それが子供、というのには抵抗がある。子供の描き方が、これまた上手くない。説得力が足りないというか……。いろいろ指示通りやれずに状況を悪化させてしまう存在は必要なのだが、もっと上手い描き方があるだろうに……。

 17稿まで書いた脚本らしいが、夫婦とか家庭の部分は、もっと整理できたし、もっとサスペンスに寄与するように書けたのではないか?

 こういう部分、アメリカ映画は実に上手いから、ついつい、ハリウッド映画基準で考えてしまうが……。

 アメリカ映画でも「アポロ13」では男のドラマに家族が絡んでくるのが不満だったのだが。その点、「ライトスタッフ」はその按配が見事だったけれど、上映時間が長いし。

 

 ヘリから救助しようとした子供が落ちてしまう!という絶体絶命の設定は、凄い。しかし、無事救助の決定的瞬間を描かないのは、何故?雲に隠れて様子が分からない、という「もどかしさのサスペンス」を狙ったのだろうが、地上にいる人間の「もどかしさ」を描きつつ、急速降下した自衛隊員が、見事、子供を空中で捕まえる、という決定的瞬間を見せた方が絶対に盛りあがったのに!

 そうすると、ヘリのエピソードが盛りあがってしまって、肝心の高速増殖炉の問題が飛んでしまう、というバランスもあったのかもしれない。

 ただ、自動操縦されているヘリが、高速増殖炉を破壊する凶器になっている、というのがこの作品のミソなんだから、ミソはカスが残らなくなるまで活用しなければならない。

 ヘリにまつわるサスペンスは、「じゃあ高速増殖炉に落ちないように大砲で撃ち落とせばいい」という選択枝を明確に否定しておかなければ。犯人がどこから監視しているか判らない、とか。それでも偽装した高射砲か巡航ミサイルを極秘裏に準備しているとか、そういうサスペンスもアリだったのではないのか?

 まあ、サスペンス映画としては、「もしあのヘリが墜落したらどのような大惨事が起きるか」を、もっと描くべきだった。とても美味しいネタなのに。しかし、それは出来ないお約束だったのだろう。セリフで「日本の大部分が住めなくなります(待避しなければならない)」と言わせているとは言え。

 「実は原子炉建屋は言われているほど強度はない」という爆弾暴露があって、核物質が飛び散った場合の最悪の事態をもう少し強調してみせれば…… 我々は既に経験しているのだから、「それはトンデモない事になる」という恐怖を突き付けられたのに。

 でもたぶん、それは出来ない事だったのだろう。

 ……アメリカ映画の定石をなぞればいいというものでもないと思うし、製作上の制約もいろいろあったのだろうと思う。

 原作の縛りもあったろうし……。

 とは言え。

 今でこそ、原子炉って言われていたほど頑丈ではないことは周知の事実だが、20年前は、劇中でも言われていたが「原子炉建屋にジャンボが突っ込んでも大丈夫」というのが「常識」だったのだ。そんな20年前に、ここまでの事実を指摘して、あの大惨事を予言したかのような東野圭吾は、凄い。

 そんな原作に敬意を表して、原作をじっくり読んでみよう。図書館で借りるのではなく、買って読もう。

 そして、この映画も、最低もう一度は見よう。

 それが、原作者と映画の製作スタッフへの敬意だと思う。

2015年10月 3日 (土曜日)

キングスマン

20150828211810 脚本:マシュー・ヴォーン、ジェーン・ゴールドマン/監督:マシュー・ヴォーン

TOHOシネマズ西新井にて

 本家本元の「007」を作っているイオン・プロなどはこの作品を観て真っ青になり、世界的に大ヒットを飛ばしていることに、ますます真っ青になってるんじゃないか?

 この作品の中で登場人物が再三口にしているが「最近のスパイ映画はリアルすぎて宜しくない」という言葉を、この作品は、そのまんま映画にして見せた。

 やっぱりね、映画は、組織がチームになってあーでもない、こーでもないと練り上げて、マーケティングがどうのとやって、最大公約数的なモノにしてしまうより、マシュー・ヴォーンのような個性的な人物が、自身の思いをキョーレツに貫いて描き出す方が絶対に面白い。ストレートだし、作り手の思いがビシビシと伝わってくる快感がある。最大公約数的な作品ではないから、場面によっては、観客によっては拒否反応も出るかもしれないが、ハマれば凄い。

 おれは、ハマった。完全に、ハマった。

 「キングスマン」は期待に違わぬ、大傑作にしてチョー痛快なメチャメチャな快作だ。かつてのスパイアクション映画の売りだった荒唐無稽さ大爆発。そしてマンガのような大殺戮大会のナンセンス極まりない爆笑アクション!ここまで行けば、笑うしかないだろう!良識とかなんとかと言い出す方がバカだ。

 何と言っても、コリン・ファース!

 ものすごくチャーミング。ブリティッシュ・エレガンスを滑稽なほど前面に押し出しているが、それがギャグにならず最高に決まっているのが凄い。

 おれも、彼の言葉にしたがって、仕立てのいいオーダーメイドのスーツが欲しくなったぞ。

 そんなブリティッシュ・トラディショナルなスーツに身を包んだ「英国紳士のステレオタイプ」みたいなコリン・ファースが、実に見事なアクションを披露する。この衝撃は、言うならば、ローレンス・オリヴィエがジェームズ・ボンドを演じて、ション・コネリー級のアクションを見せたような衝撃。

 日本の男優で言えば……山村聰とか中村伸郎とか笠智衆がキレッキレのアクションを見せるような……ちょっと違うけど。仲代達矢にしても平幹二朗にしても、日本の男優ってほとんどの人がアクションはやってるからねえ。歌舞伎の人はアクションは得意中の得意だし。

 プロローグは、1997年の中東。作戦のミスを犯したのに仲間の犠牲で生き延びたハリー(コリン・ファース)は、遺族の元を訪れて、「困ったときは」とメダルを渡す。

 そして17年後。

 アルゼンチンの雪で覆われた山頂にある山小屋と言うには立派な邸宅に誘拐されたアーノルド教授を救出に来たエージェントが、実にカッコイイ!この男こそ本来のジェームズ・ボンドだ!と思ったら、あっさりと真っ二つに裂かれて殺されてしまう。この死に方があまりに凄いというか、マンガなので、笑うしかない。

 義足が鋭いナイフになっているというのは怖いし素晴らしいし、それが美女というのがまたまた素晴らしい。この手の映画は、こうでなくっちゃ!

 ここからはもう、アレヨアレヨという展開で、完全に、マシュー・ヴォーンの手の平の上で転がされる。

 犠牲になった仲間の遺児は青年になっているが、環境の悪さからマジメになりきれない。ワルから盗んだ車で、パトカーとチェイスをして捕まるのだが、このチェイスが、車を猛然とバックさせてのチェイス。これは見た事がない!

 青年は、ここで初めて「困ったときに使え」と言われたメダルを使うと……ハリーがやって来て、「組織」(キングスマン)にスカウトする。

 フリーメーソンみたいな組織だが、第1次大戦で多くの「同志」が死んで、その莫大な遺産で組織は運営されている。いかなる政府・軍隊から完全独立していて、目的は「世界平和」!

 サヴィル・ロウにあるテーラーの他に、ロンドン郊外に巨大な本部がある。その間を超高速鉄道(真空のシリンダーの中を圧縮空気で移動するみたいなヤツ)が繋いでいる。本部の地下にはこれまた巨大な飛行機の倉庫がある。もう、バカバカしくなるほど大掛かり。

 いいねえ!極めていかがわしくてもっともらしくて、絶対あり得ねー組織。

 で、ハリーは、ワルが集まるパブで、鮮やかに連中を料理する。

 このシーンが見事で、もう、ここからは夢中で見ることになる。

 コリン・ファースのアクションは、宣伝文句の通りに「キレッキレ」で、凄い。いや、ただ身のこなしにキレがあって鮮やかと言うのではない。常に品があってエレガントなのだ。

 たぶん、英国人が見たら、もっと大爆笑するんじゃないか?ステレオタイプの英国紳士が突然、無茶苦茶に暴れるんだから!

 映画は、コリン・ファースの個人技にだけ頼らない。

 彼がスカウトした青年エグジーのトレーニングというか成長物語でもある。

 このスパイ・トレーニングは独特で、「ウラをかく」要素があるから一筋縄ではいかない。

 振り落とされるメンバーの中には、チャールズ皇太子そっくりに見える上流階級出身を鼻に掛けた絵に描いたような嫌な奴が出て来るが……。細かいところまで抜かりがない、マシュー・ヴォーン。

 まあ、この映画のサブテーマは「人間の価値は出身では決まらない」だから、こういうキャスティングというかキャラクター付けはまあ、当然のことか。

 青年エグジーのトレーニングの最中に、ハリーは敵の攻撃を受けて倒れてしまう。

 敵・ヴァレンタインは、天才IT長者で環境保護運動に熱心だったが、その思想が行き着いた先は「地球にとって人間はウィルスだ。人間が地球をダメにする。だから、無駄な人間を減らさなければならない」という、半分頷ける過激思想。これをサミュエル・L・ジャクソンが、一見、テキトーに演じている。モデルにしたのはスティーブ・ジョブズらしい。「あんなに影響力のある人物が悪の道に走ったら……という感じでやってみた」らしい。同じ長者でもビル・ゲイツじゃないのね。

 回復したハリーは、ヴァレンタインが「人類相打ち計画」のテストをやるらしいケンタッキーの田舎にある「超ウヨク保守反動白人キリスト教至上主義」の教会の礼拝に参加するが、牧師によるあまりに差別的な「説教」に腹を立てて席を立とうとするが、隣の狂信者のおばさんに止められる。そこでハリーが言うセリフが秀逸。大笑いしたが、客席はシンとしていたねえ。

 ここでヴァレンタインからの謎の「司令」が飛んで、教会にいた全員が殺しあいを始める。これにハリーも参加してしまって、鮮やかに全員を殺してしまう。

 この場面が賛否両論なんだろうなあ。ワルノリの極みなんだけど。

 教会の外に居たヴァレンタインとハリーの対決。

 ここでハリーはあっけなく撃ち殺されてしまう!

 えええええっ!

 ここでハリーが死んじゃうの!

 組織のリーダーは、マイケル・ケイン。この映画のスパイのイメージは、彼が演じたハリー・パーマーをぐっとゴージャスにした感じだよなあ。80歳を超えたケインに求めるのは酷だけど、彼のアクションも、ほんの少しでも見たかった……でも撮影中に死なれても困るが。

 この組織のリーダーもヴァレンタインの思想に共鳴していた!というドンデン返しがあり、その罠にかかったエグジーは、鮮やかな手腕でその危機を脱する。

 そうして、ラストの大クライマックス!

 マシュー・ヴォーンはスウェーデンに恨みでもあるのか?日本語字幕では「スカンジナビアのある国」とか訳されていたが、画面にははっきりスウェーデンと出るし、原語のセリフでもハッキリ言ってるし……そのスウェーデンの首相がヴァレンタインの思想に共鳴するが、王女は断固拒否(しかしのちほどエグジーに救出されたときは「お礼に後ろの穴を使ってもいいわ」とアナルセックスを許すんだぜ!)。

 いやもう、怒濤のクライマックスで、本当にすべてのことが多発的に並行して起きるので、見ている側はもう、唖然として見守るしかない。

 エグジー対義足の美女。ヴァレンタインの「戦慄の悪の計画」を失敗させて、ヴァレンタイン協力者を次々に「爆破」していく。首が吹っ飛んで、首なし死体がゴロゴロ。

 とにかく、あまりにヒドイ大殺戮で、ヒドすぎて……そういう演出にしてあるのだが……大笑いした。しかし、1/3ほど埋まった客席はしーんとしている。こんな大笑いできるシーンで、どうして笑わないんだ?この映画はコメディだぞ!

 昔、渋谷で見たコーエン兄弟の「バートン・フィンク」も、あんなに笑えるのに、誰も笑っていなかったしなあ。小林信彦の言だけど、「日本人は笑わない」ねえ。こんなによく出来た大爆笑コメディ・アクションなのに!

 もう、阿鼻叫喚で、ここまで来たら、大爆笑でしょう!

 ラストはもちろん、大団円。意外で残酷なオチは、ない。当然である。

 「女王陛下の007」があったように、日本でも「天皇陛下の諜報員」って、出来ないものか……って、007ブームの時に日本も便乗映画を幾つも作ったし、そういう小説もあったけど……それにまあ、この映画を観て刺激を受けた多くのエンターテインメント作家も同じ事を考えただろうなあ。

 完全に荒唐無稽なスパイ・アクション小説。一時凄く流行って、行くところまで行って急にポシャったジャンルだよなあ。でも、そろそろ復活してもいいんじゃないかねえ?しかしまあ、荒唐無稽すぎるとシラケるから、その案配が難しいと思うけど。

 この作品は、本家の「007」をおおいに意識しているし、劇中のセリフにも何度も出て来る。「昔のはよかったが、今のはリアルすぎてダメだ」とか。

 おれも、今のダニエル・クレイグのボンドが大嫌い。あんな野蛮な暴力性剥き出しの、エレガントさもしゃれっ気もないボンドなんか、嫌だ!ダニエル・クレイグは野蛮すぎる。晩年のロジャー・ムーアはアクションが痛々しかったが、あのユーモアと優雅さと余裕は好きだった。いかにもオトナ、という感じで。しかしダニエル・クレイグはストリートのワルがそのまんまMI6に就職したみたいじゃないか。

 この作品は、「007」が昔は持っていたエレガンスというか優雅な雰囲気をとても大切にしつつ、キッチュで荒唐無稽な「オトナのマンガ」の線を至極マジメに追及しているから、現在の「007」より本当の(イアン・フレミングのイメージの)「007」に近いだろう。フレミングの抱いたイメージは、ジェームズ・メイスンかデヴィッド・ニーヴンだったらしい。どっちもアクション俳優じゃないよねえ。

 堕落しきった(ごく一部の怪獣ヲタクにだけアピールするようなクソ映画でしかなくなってしまった)東宝ゴジラに対し、金子修介という才人が樋口真嗣と組んで、画期的な平成ガメラが三部作を作り出し、怪獣映画本来のスリリングでサスペンスで恐怖満載の鮮やかな作品に仕上げて、生ぬるくて誰の作品か全然作者の顔が見えない東宝ゴジラを完膚なきまでにぶった切って大勝利を収めたように、マシュー・ヴォーンの本作は、本家「007」に「本来のボンドはどう言うものか」と正面から問いかけたと思う。

 何事も、本家本元が一番だとは思うが、本家本元は「常にヒットしなければいけない」という呪縛があるので、このような外野が自由に発想して「本来の本家本元の姿」をきっちり再構築するという冒険が出来ない。その点、マシュー・ヴォーン監督のチームは、驚異的な鮮やかさと手練手管で、本家の007を粉砕したぞ!

 これぞ、スパイアクションの本当の姿だ!

 いやもう、大興奮。上記のように平成ガメラ第1作を見たときの飛び上がりそうな興奮を思い出して、なんとも幸せな気分で映画館を出た。

 あと2,3回は見たい。

  いやしかし、この映画はロンドンの映画館で観たいねえ。彼らがこの映画のハリーにどういう反応を見せるのか、知りたい。とんでもない時代錯誤の俗物でお笑いの対象なのか、それとも今も現役で生きている英国紳士の魅力を再発見したのか、彼らの生の反応が知りたいのだ。

 おれなんかからすれば、コリン・ファースはすこぶるカッコイイし、話す正統派キングス(クィーンズ)・イングリッシュも心地いいし、ブリティッシュ・トラディショナルなスーツはカッコイイし、上品な身のこなしもエレガントで、とても憧れちゃうんだけど……。

2015年9月 1日 (火曜日)

ソ満国境 15歳の夏

脚本・監督/松島哲也

横浜シネマリンにて

 映画を観るときの常で、あまり予備知識は仕入れず、白紙で見ようとしたが、チラシは読んだので、「ソ満国境近くから必死で逃げる少年達の悲惨な話」……という先入観ができてしまって、見るのにかなりの覚悟が必要だった……。

 しかし!その先入観は大きく間違っていた。

 「当時15歳の少年たちが突如攻め込んできたソ連軍から逃れて満州の大地を逃げる」物語なのだが、戦争の悲惨さを訴えることよりも、「人間の手はひどいことも出来るが、人を救うことも出来る」ということを、静かに、しかし力強く訴える映画だった。

 人間、困り果てているときに救いの手を差し伸べてくれた喜びと感謝の気持ちは一生忘れない。それは普遍の真理だと思うが、戦争という極めて困難で激しい対立がある時に、その恩を受けたなら……それは一生を変えてしまうものになりうる。

 「ビルマの竪琴」に通じるテーマだが、この作品は、それだけでは終わらない。

 この『過去の話』を、現在の中学生がビデオ作品にまとめていく、というもう一つの物語がある。彼らは福島第一原発の事故で故郷を奪われた人たちの子供だ。

 以前、彼らの先輩が作った作品に感動して機材と取材費と渡航費を持つから、という中国の篤志家の招待に応じて旧満州に渡る彼ら。

 満州で生まれ育った少年達は敗戦ですべてを失ってしまった。それは原発事故ですべてを失い、しかも自分たちの土地にすら帰れない福島の人たちにも、その意味は重なってくる。 

 これは、現代にもつながる作品なのだ!

 「国家」は平気で「国民」を捨てる。軍隊は市民を守ってはくれない。

 それは今も同じ事ではないのか?

 そういう問題を、どうしても考えさせられる。

 だが、この重い問題を見つめる松島監督の目差しは、優しい。

 彼はおれの大学の同級生だが、学生の頃のとんがった厳しい姿が信じられないほど、優しい目線でこの大きな物語を描いていく。

 かなり厳しい条件で、幾度となく製作中断を強いられた、苦難を経て、この作品は完成した。それだけの苦労をしても、完成させるべき作品だと思った。

 見終わった時に流れた涙は、戦争への怒りの涙ではなく、温かな感動の涙だった。

 ラストの方に出て来る、原発事故で突然避難を強いられて、何もかも失った人たちの数カット。あの映像だけでも、満州でのことは遠い過去の事ではなく、今に続いているのだ、今も問題の根本は変わっていないんだぞ!という強いメッセージを受けとった。

 そして、そのメッセージというかテーマがあるからこそ、この作品は、より深く、重層的な感動をもたらし、過去と現在を繋ぐのだと思った。

 旧満州に残って中国人となった篤志家を演じた田中泯が圧倒的。この人の言うことは自分の肉体から出た言葉だからすべて正しい、と思わせる強い説得力がある。静かな演技だからこそ、その胸の奥にある熱いものが激しく迸る。素晴らしい。

 少年達の教官を演じた金子昇も、ただ厳しいだけではない、真っ当で生徒思いの素晴らしい教官を骨太に演じて、いい。

 夏八木勲はもう、「フィールド・オブ・ドリームズ」のバート・ランカスター状態で、ただ立っているだけですべてを物語ってしまうほどのオーラを放っていた。無事に帰還した少年の「今」の役で、原作のとなった本を書いた人物という設定なのだが、なんというかねえ、この説得力は何だろうねえ。同級生の上田耕一も小林勝也も味わい深いんだけど。

 この映画は、見て良かった、としみじみ思う。

2015年4月 6日 (月曜日)

味園ユニバース(の感想)

監督:山下敦弘/脚本:菅野友恵

大森キネカにて

Misono

 実に不思議な映画で、見終わってしばらく経ってからじわじわと得体の知れない感動(というのも妙な表現だが)が込み上げてくる。

 和田アキ子の往年の名曲「古い日記」がキーになる曲として使われていて、その歌詞を読み返していると……。

 この作品は「幸せって、なに?」と問いかける映画ではないか、と思えてきた。監督の言葉にはそういう表現はなくて「カラッポのダメ男を見守る母性の話」と言っているけれども。

 関ジャニって、もっと若い、まだコドモのグループだと思っていた。その中でも一番人相が悪くて目がキツい印象なのが、渋谷すばる。でも彼は33で、おじさんだ。ジャニーズのアイドルはみんな高齢化が進んでいるんだなあ。

 で、その渋谷すばるのガラを生かして短髪にしたら、余計に凄みが出て、世をすねた「行き場のないパワーの使い道に困った男」を物凄くリアルに表現している。根っこは真面目で優しい男、というのがニクい。

 そして驚いたのは、その歌唱力。のっけにアカペラで「古い日記」をドスの効いた声で歌った瞬間、おおお~っと思った。そして、この映画の世界に引き込まれた。

 この男は刑務所を出てすぐに襲われて記憶を無くす。映画は、この男の記憶の回復を追っていくのだが……いきなり血みどろ。

 うわ~と思っていると、暴行を受けて記憶を失ってしまった男は、バンド「赤犬」の屋外イベントに乱入して「古い日記」をアカペラで歌ってぶっ倒れる。この「赤犬」のマネージャー兼歌詞スタジオの経営者・カスミは、放っておけなくて家に連れて帰って知り合いの女医に治療して貰い、自分の家に住まわせるが……。

 大阪ミナミの外れ付近らしい街の暮らしが、なんだか、懐かしい。カネはないけど楽しく暮らせる所、という感じで、妙にユートピアみたいに感じる。玉子焼のご飯を食べていれば、とりあえず生きていけるし、玉子焼だって美味しいし、みたいな。

 無風でぬるま湯みたいだが、それなりに平穏で、平和な日々。

 妙なオッサンの集団「赤犬」は、半分趣味で音楽パフォーマンスをやっている仲良しグループで、この感じも、なんだか、イイ。こんな生活、いいよねえ。

 カスミが急死した親から引き継いで経営している音楽スタジオが、これまた不思議な空間で、近所のおばちゃんがカラオケしに来るかと思えば、アマチュアバンドの練習場になったり。設備も不思議で、プロの録音スタジオに備え付けられている豪華な32チャンネルか48チャンネルはあるミキシング・コンソールがあったり、放送局放出品みたいな古くて頑丈そうなミキサーがあったりと、録音機材の博物館みたいな感じ。やたらゴツいコネクターとぶっといケーブルで接続された古い古い機材もあって、なんかすごく興味津々。

 男は、音楽に触れる毎日の中で、音楽の才能を開花させていく。

 

 しかし、「ポチ男」と名付けられた男は、次第に記憶が戻ってくるが、その「過去」は思い出さない方が幸せなものばかり。

 根は悪い男じゃないのに、どうしてそうなったんだろうとカスミとともに観客も思うが、それについての答えはない。ヤンキーになってそのままやさぐれてしまう男って、本人もうまく説明出来ない葛藤とか衝動とかがあるのだろう。ヤンキー経験の無いおれには判らない世界だが。

 しかし、ヤクザの世界の方がスリリングで、おっさんバンドで歌っているより自分の性分に合っていると思ったポチ男こと茂雄は、元のヤクザの世界に戻っていくが、ボスに裏切られて……。

 ほんと、幸せって、なんだろうね。

 見ている最中は、激動の展開(でもお話自体は波瀾万丈でもなんでもないけど、一個人としてみたら、おおいにジェットコースター的展開だ)と渋谷すばると二階堂ふみの魅力、そして「赤犬」のオモロさに目を奪われるばかりだったが、時間を置くと、じわじわと、このテーマ(あくまでおれの想定したテーマでしかないけど)が頭の中で点滅して、それを考えていると、妙に涙が湧いてくる。

 この映画に出てくるのは、ヤクザのボス(お笑いコンビ「天竺鼠」の川原。凄みがあった)以外は上昇志向も無く、マイペースで、いい意味での個人主義。他人はどうあれ自分が幸せだと思える生活が出来ればエエやんか、という生活は、それはそれで素晴らしいし憧れる。余計な事を考えなければ、とてもラクでストレスのない生活だろうなあと思う。

 いやしかし、大阪ミナミに行けばそんな暮らしが出来るというわけでもなく、この映画のマジックに引っかかっているだけなのだが。

 でも、そう思ってしまうほど、この映画に描かれる大阪は、不思議な街だ。ワンダーランドだ。日本じゃない異国のようだ。アジアのどこか、という感じもする。

 明治以来、日本は「奪亜入欧」で頑張ってきたけど、日本はアジアなんだから妙な無理しないでアジアであることを受け入れればもっとラクになるのに、という「悪魔の囁き」(?)が聞こえる気もしたが、この映画は、そこまでのことを描くつもりはないはずだ。これは勝手なおれの思いでしか無いけど。

 山下敦弘の演出は、役者の持ち味をナチュラルに引き出していると思う。奇をてらわず作為も感じさせず、とても自然体。だから、登場人物が全員、とてもリアルで、本当にあの街に行けば居るんじゃないかと思わせる存在感を見せている。

 脚本も、とても自然な展開で(ラストの窮地をどうやって脱したのか?というギャグのような疑問もあるけど)好感が持てる。なんか、暖かい感じが伝わるのがいいのよね。

 録音は、ライブ音源を駆使して、なかなか大変なことをやってるんじゃないかと思った。サラッと見てしまうが、この映画は裏方が相当苦心惨憺して結果を出したのではないかと思う。こういう「音楽映画」は、音の処理が難しい。昔みたいにプレスコをしてしまえば簡単だけど、それじゃあライブ感が薄まってしまう。映っている歌う姿が発する歌声が使えれば一番いいけれど、いろんな条件的にそれを使うのはなかなか難しい。しかし今回は、本番の音声をそのまま使っている部分が多いと思う。もし使っていないなら、ダビングの際の音の処理がとてもうまくいった結果だと思う。

 こういう「意欲的な小品」がたくさん出てくると、日本映画の底上げにもなるしスタッフの力も付いて日本映画界の体力も付く。ほんと、一時の衰退ぶりが嘘のように、今の日本映画は元気があると思う(と言ったら、「ホントにそう思う?」と編集技師のA氏に言われてしまったけど)。

 インディーズ出身の監督の活躍ぶりは、とても眩しい。

2014年10月21日 (火曜日)

ジャージー・ボーイズ

監督:クリント・イーストウッド/脚本:マーシャル・ブリックマン、リック・エリス

楽天地シネマ1にて

 ブロードウェイでロングランしているヒット・ミュージカル。往年の」ヒット曲をフィーチャーしたスタイルを「ジュークボックス・ミュージカル」と言うらしい。

 このステージも「マンマ・ミーア」の成功を見て企画されたらしいが、企画を練り上げる段階で、ただ単にフォー・シーズンズの歌をフィーチャーしたものではなく、殆ど知られていない彼らのリアル・ライフをドラマにしようと言うことになり、各人各様のとらえ方を「羅生門」スタイルで見せると思い付く。

 これでもう、作品の成功とヒットは決まったようなモノだ。アメリカには歌が上手くて芝居も出来るミュージカル俳優はたくさんいるんだし。

 そのステージを、完全に映画のスタイルに消化しているのが見事!(って、おれはステージを見ていないんだけど)。思えば、「ウェスト・サイド物語」だって、ステージと映画では構成が微妙に違うし、その改変したところが映画的にとても素晴らしかったりする。

 このステージの映画化は、過去の舞台ミュージカルの映画版と比較しても最上級の傑作なのではないか?

 とても素晴らしかった。

 アメリカ人なら、絶対に泣くだろう。おれはフォー・シーズンズにあんまり関心は無かったが、いくつかの曲はもちろん知っている。しかし、彼らの歌とともに時間を過ごし人生を重ねてきたオールド・グッド・アメリカンたちはもう、胸が張り裂けるほど感動するんじゃないだろうか?自分の人生に重ね合わせて。世のお父さんが号泣した「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」みたいに。

 バンドの黎明期に、新たに参加させようと呼び寄せた年少のボブが書いたばかりという曲をピアノで弾き聞かせている場面。

 「いいじゃん?」とフランキーが譜面を見ながらファルセットの合いの手を入れ、それを聞いたトミーも譜面を見ながらギターを入れ、ニックもベースで合わせる。

 フォー・シーズンズのスタイル誕生の瞬間!

 この場面が物凄く感動的!

 「アマデウス」で病に伏せったモーツァルトが口づてでサリエリに採譜させて「レクイエム」を作曲していくスリリングな名場面(これは「アマデウス」全編のクライマックスだ)の興奮に匹敵する!

 聞くのは好きだけど楽譜が読めず楽器も弾けないおれから見ると、彼らはなんて天才なんだ!と思う。

 フォー・シーズンズ誕生の瞬間の描写として、最高のエピソードだし、彼らの音楽性と実力も描いているし、物凄く上手い。って、誰に向かって言ってるんだってことになるが。

 スターとして驀進するが、順風満帆ではない。トミーの莫大な借金をみんなで返そうと決める場面も感動的。ニュージャージーのイタリア系の悪ガキの厚い友情というか「しょーがねーじゃねーか」という気風がよく判る。「バンドのために使ったカネもあるんだし」

 物語は概ね、フランキーを軸に展開する。ボブほど頭は良くないし、悪いことはしないわけではないが、情に厚い歌うことが好きな男。

 人間的には穏やかで才能溢れ、自分の権利はしっかり守るボブに共感するが、男気溢れるフランキーの魅力は眩い。贔屓しすぎてるんじゃないの?と思ってしまうほど。

 しかし、そんなフランキーも、仕事で忙しくて家庭を顧みることが出来ず、可愛い娘ばかりの家を棄て、離婚。とても可愛い末娘をドラッグで失ってしまう。

 人気も下り坂になった時と重なって、さすがにもう、スター人生もおしまいかと思われたとき、クールだけどジャージー・ボーイとしてフランキーへの友情を失っていなかったボブが書いた曲が大ヒット!

 泣いた。

 

 そして、華もあらしも踏み越えて幾星霜。

 ロックの殿堂入りした老いた4人の再会。

 そしてそして、エンドロールの映画最高のクライマックスが、地元の町を舞台に歌い踊る、大ミュージカル・シーン。

 ステージのカーテン・コールのように映画のために用意された一大ミュージカル場面は、圧巻。圧倒される。今まで静かに蓄えてあったパワーをここぞとばかりに爆発させて、登場人物全員が歌い踊り、群舞あり大規模なクレーンショットあり、豪華絢爛たるシネ・ミュージカルの極意をどっかーんと炸裂させた!

 これがもうね、涙もの。素晴らしいの一言。

 彼らを影で助けたマフィアのボス(好人物として描かれているので、本当に頼りになる一族のビッグ・パパという感じ……クリストファー・ウォーケン、最高!)もリズムを踏んでノリノリなのが嬉しい。

 ミュージカルの楽しさが、ここで一挙に大爆発!

 見終わった直後は、圧倒された感じがあってよく判らなかったが、時間を置いて振り返ると、なんとも巨大な作品で、涙が溢れてくる。

 

 「雨に唄えば」のクライマックスを飾る大ナンバー「ブロードウェイ・バレエ」の中の、田舎から出てきたジーン・ケリー(が扮するドン・ロックウッド)がブロードウェイのエージェントを廻って玄関払いされた末に採用されてスターの階段を駆け上がる「Gotta dance」のくだりが上手く引用されていて、作り手の過去のシネ・ミュージカルへのウィンクを感じた。

 ああ、ミュージカルって素晴らしい!

 と、久々に感じる事の出来た、傑作。

 いろいろ調べると、舞台版は2幕4場で、メンバーの4人の別々の視点で場を見せるという構成。これはこれで舞台炊きだと思うが、映画的にもっと熟れた、本作の演出は見事だと思う。カメラに向かって独白する人物がそのまま芝居に戻る呼吸が見事なのだ。

 この作品は、イーストウッド自身の企画ではなく、映画化権を取ったプロデューサーが脚本をイーストウッドに送ったところ、たちどころに返事が来て、監督することに決まったらしい。

 老いてますます盛ん!

 いや、年を取ってから監督として冴えに冴えて、年齢をまったく感じさせない。

 イーストウッドって、怪物だ。

 映画の中でボブが「ローハイド」を見ているカットがあったが、あれは自分へのウィンクか?

 同様に、ビリー・ワイルダーの時代に早すぎた不遇の傑作「地獄の英雄」を見て曲を思い付くシーンもあったりして(実話なんだろうけど)、映画ファンへのウィンクも。

 溜息が出ますな。

 もう一度見なければならない映画。

『大瀧詠一さんに観てもらいたかった映画。「ジャージー・ボーイズ」はイーストウッドの映画の中では別格というか特別というか、すごい映画だと思います。早くもクラシックというか、永遠のスタンダードの匂いがする』という小林信彦さんのコメントに涙。

『クリント・イーストウッドが、「ジャージー・ボーイズ」を監督する―初めてこのニュースを聞いた時は冗談かと思ったが、完成した映画を見た今は、運命の巡り合わせに感謝するばかりだ。もし観客からクレームがつくとすれば、「このシーンをもっとたっぷり見たかった。」というものに違いないほど楽しいエンディングは、ニュージャージー生まれの仲間という絆を、どんな時にも一番に考えてきたザ・フォー・シーズンズたちへの讃歌。一緒に踊りたくなること請け合いだ』という佐藤友紀氏の言葉に付け加えることはない。

安達瑶の本

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