映画「ゴジラ-1.0」の感想
脚本・監督・VFX:山崎貴
TOHOシネマズ錦糸町楽天地にて
実に面白かった。ものすごくよく出来ている。なんせ、ゴジラが圧倒的に怖い。ゴジラに何の思い入れもなく、ただただ狂暴で恐ろしい存在として描ききっている。それはもう、圧倒的。
ゴジラの登場シーンが少ないとか、人間ドラマばかりだとかという「怪獣バカ」の感想は、無視。おれはゴジラは日本に災害をもたらす存在であって、ゴジラ映画は、パニック映画・ディザスター映画だと思っているから。「怪獣プロレス」には、なんの興味もない。
この作品は、岡本喜八作品で例えれば、「シン・ゴジラ」が「日本のいちばん長い日」であったのに対して、「肉弾」だろう。「日本のいちばん長い日」と「シン・ゴジラ」は、国家の未曾有の一大事に日本の最高首脳部が右往左往して、まずは自分の仕事として「無条件降伏」「ゴジラ」に対処するが、「肉弾」と本作は、その未曾有の一大事を、「ワタクシ的立場」から、私情を第一に描いている。主人公はともに特攻隊だし……。
そう考えれば、この作品の世界にはすんなり入ることが出来た。
映画を観る前に、予備知識は入れたくなかったが、どうしても少しは入ってきてしまう。山崎貴監督がゴジラ映画を巧く作るだろうことは「続三丁目の夕日」の冒頭でゴジラを出して、そのゴジラがものすごく怖くて迫力があって存在感があったので、成功は間違いないとは思っていたが、敗戦後の復興期を舞台にすると知って、「どうしてそんなに踏んだり蹴ったりな設定にするんだろう?山崎監督はサディストか?」と思ったりした。第1作より前、という設定で作りたいという意図も知ったが……。
実務として「『シン・ゴジラ』の成功を受けて、またゴジラを作れと言われて、クリエイターの意地で『シン・ゴジラ』の要素を全部抜いて、過去のゴジラ作品の要素も抜いて、第1作より前の時代設定としてハナシを考えると、こうなったんじゃないか、と思った。それにプラスして、今までの「永遠の0」とか「アルキメデスの大戦」などで醸成された思想的なもの(どれも観ていないので、その「思想」がどんなものか、よく判らないが)がうまい具合にプラスされてまとまったんじゃないかと思う。
本作の設定の最大の懸念は、「占領下なのに占領軍がまったく登場しないこと」だ。「ソ連を刺激したくないから占領軍は軍事行動出来ない」というのは、如何にも苦しい言い訳だ。銀座があれほど壊滅してアメリカ海軍の軍艦もゴジラに破壊され、このままでは占領軍の基地も破壊されて兵士にも被害が出て……なにより極東の軍事バランスが狂って、ソ連が一気に極東に進出してくるかもしれないではないか。ならば、朝鮮戦争(1950~1953)の最中にゴジラが来襲するという設定ではどうだろうと思った。ゴジラ第1作は1954年公開だし、その前という設定にも無理はない。アメリカ軍は朝鮮戦争にかかりきりで日本のことは日本でやってくれということになった、というのは……?
しかし、本作のテーマとしては「政府なんかアテにならない!」というかなりラジカルな思想がある。当時の世論としては当然のことだろうし、「混乱を避けるためにゴジラに関することは伏せられている」日本政府の責任を取りたくない体制という設定にも納得がいく。「情報統制は日本のお家芸」という台詞もうまい具合に効いているし……山崎監督としては、アメリカ軍や日本政府は役に立たないものとして、「民間が頑張る姿」を描くべきだと思ったのだろう。それはよく判る。しかしやっぱり、アメリカ軍がまったく関与しない(旧日本軍の戦艦などは使ってヨシと許可が出たとはいえ)のは、どう考えても不自然だなあ。もうすこしマシな言い訳が出来る設定が作れなかったか、と思う。映画を観ている間はあまり気にならなかったとはいえ。
前述のように、おれは「「シン・ゴジラ」の熱烈なシンパなので、「シン・ゴジラ」の世界観を否定するような出来上がりになってるんじゃないかというかなりの不安があったが、それは完全な杞憂だった。
戦闘機乗りとしての技量は高いのに特攻出来なくて大戸島の不時着基地に帰還した主人公・敷島は、そこでゴジラと出会い、ゼロ戦の機銃を撃てずに基地も守れず、なのに自分はまた生き残ってしまった。
焼け野原の東京に戻った主人公は闇市で典子と赤ん坊のアキコと出会い一緒に暮らすことになり、機雷除去の仕事に就き、仲間を得る。この仲間が映画のメインになる「船長」「学者」「小僧」。この3人と主人公と典子の5人が、素晴らしい。そして戦闘機の熟練整備工(主人公を憎んでいる)。いやそれに、主人公の家の隣人のおばさん。というと、主要キャスト全員がいい味を出して素晴らしかった。
それよりなにより……やっぱり、ゴジラが怖い。圧倒的に怖い。人間を咥えて放り投げるゴジラは初めてじゃないの?「続三丁目の夕日」に登場したゴジラもかなり怖かった(怖さでいえば「シン・ゴジラ」より生理的に怖かった)が……合成がモーレツに上手いこともあって、CGとか合成とかあれこれ考える暇もなく、ただただ怖かった。銀座を破壊するシークェンスは、乗っている電車をゴジラに咥えられて高いところからお堀に落下する典子のショットとか、もう凄いとしかいいようがない。海上で主人公たちが乗った機雷掃海艇を追いかけてくるところなんか無茶苦茶怖かった。
そして、やっぱり、ゴジラと言えば「伊福部サウンド」!対ゴジラ作戦が始まると、満を持したように流れる伊福部サウンドに、思わず「待ってました!」「ニッポンイチ!」と叫びたくなった。叫ばなかったけど。しかし、手を握り締めて「よし!」と思ったぞ。自衛隊は登場しない(この時代、まだ存在していない)ので、例の「自衛隊マーチ」は鳴らなかったが。
典子が死んで、もう失うものは何も無い、自分も死んで戦争にケリをつけようと、主人公は「ゴジラ決死隊」に参加する。「日本は今まであまりに命を粗末にし過ぎてきた。しかし今回は民間がやるのだから、みんな生きて帰ってこよう!」とは言うけど……主人公は死ぬつもりだ。ああ、これで特攻を美化されるのは嫌だなあ、と思ったが(「さらば宇宙戦艦ヤマト」では完全に特攻を美化してから)……。
「学者」が立案した大規模な「ゴジラを急激に沈めて浮かせて破裂させる作戦」は失敗したが、主人公の特攻で、ゴジラの頭部を完全に破壊することに成功……したが、主人公は脱出装置で脱出に成功していた!よかった!特攻しなくて良かった!
そして……死んだと思った典子も生きていた。
いい終わり方ではないか!
「肉弾」的ゴジラ、素晴らしい作品になったと思う。
千葉のZOZOタウン球場にフルボリュームで流して再収録した「ゴジラの鳴き声」は、この劇場の音響では堪能出来なかった。音響自慢の劇場でもう1回観ようかな。
そして、ゴジラに破壊された銀座に呆然と立ち尽くしていた橋爪功にしか見えない人物について検索したら、やっぱり多くの人が「あれは橋爪功だよね」と書き込んでいた。橋爪さんはその後で重要な役で出てくるのかと思ったら、完全なカメオだったようだ。調べると、他にも梶原善とか複数のカメオ出演者がいたようだが……おれには判らなかった。それを確かめるためにも、もう1度観ようかな。
ただ……本作のゴジラの姿勢が気になった。これまでのゴジラは猫背だったが、本作では背筋が伸びているというか、反り返って虚勢を張ってる感じがあって、それに違和感を覚えた。気のせいかな?
大ヒットしているらしい。悔しいが「シン・ゴジラ」の記録を超えるようだ。また新作を、というハナシは当然出るだろう。しかし……アメリカ版のゴジラは観る気もしないし、国産ゴジラに、新作を作る余地はあるのだろうか?
*付記*
書き忘れたのだが、ゴジラの頭部を吹き飛ばして海底に沈んでいく姿に対して(?)ゴジラと戦ってきたもの全員が敬礼するが……これが解せない。本作のゴジラは、こういう形で死に対して敬意を表される存在ではないから。
それと、銀座のシークェンスで米兵も米軍のジープも交差点で交通整理する米兵の姿も一切ない。東京は占領下ではないかのようだ。唯一「PX」の看板は出てくるが。そこまでして「アメリカの影」「アメリカ軍の存在」を消したいのか?主人公の隣人(安藤サクラ)が東京を焼け野原にしたアメリカへの怒りは口にせず、生還した主人公を「(負けたのは)あんたらのせいだ!」みたいに詰るが……。まあこれは、その後の主人公の苦悩や「自分の中ではまだ終わっていない戦争」を強調する意図だと解釈できるけれど……。
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