映画・テレビ

2023年11月30日 (木曜日)

映画「ゴジラ-1.0」の感想

脚本・監督・VFX:山崎貴
TOHOシネマズ錦糸町楽天地にて

 

 実に面白かった。ものすごくよく出来ている。なんせ、ゴジラが圧倒的に怖い。ゴジラに何の思い入れもなく、ただただ狂暴で恐ろしい存在として描ききっている。それはもう、圧倒的。
 ゴジラの登場シーンが少ないとか、人間ドラマばかりだとかという「怪獣バカ」の感想は、無視。おれはゴジラは日本に災害をもたらす存在であって、ゴジラ映画は、パニック映画・ディザスター映画だと思っているから。「怪獣プロレス」には、なんの興味もない。
 この作品は、岡本喜八作品で例えれば、「シン・ゴジラ」が「日本のいちばん長い日」であったのに対して、「肉弾」だろう。「日本のいちばん長い日」と「シン・ゴジラ」は、国家の未曾有の一大事に日本の最高首脳部が右往左往して、まずは自分の仕事として「無条件降伏」「ゴジラ」に対処するが、「肉弾」と本作は、その未曾有の一大事を、「ワタクシ的立場」から、私情を第一に描いている。主人公はともに特攻隊だし……。
 そう考えれば、この作品の世界にはすんなり入ることが出来た。
 
 映画を観る前に、予備知識は入れたくなかったが、どうしても少しは入ってきてしまう。山崎貴監督がゴジラ映画を巧く作るだろうことは「続三丁目の夕日」の冒頭でゴジラを出して、そのゴジラがものすごく怖くて迫力があって存在感があったので、成功は間違いないとは思っていたが、敗戦後の復興期を舞台にすると知って、「どうしてそんなに踏んだり蹴ったりな設定にするんだろう?山崎監督はサディストか?」と思ったりした。第1作より前、という設定で作りたいという意図も知ったが……。
 実務として「『シン・ゴジラ』の成功を受けて、またゴジラを作れと言われて、クリエイターの意地で『シン・ゴジラ』の要素を全部抜いて、過去のゴジラ作品の要素も抜いて、第1作より前の時代設定としてハナシを考えると、こうなったんじゃないか、と思った。それにプラスして、今までの「永遠の0」とか「アルキメデスの大戦」などで醸成された思想的なもの(どれも観ていないので、その「思想」がどんなものか、よく判らないが)がうまい具合にプラスされてまとまったんじゃないかと思う。

 

 本作の設定の最大の懸念は、「占領下なのに占領軍がまったく登場しないこと」だ。「ソ連を刺激したくないから占領軍は軍事行動出来ない」というのは、如何にも苦しい言い訳だ。銀座があれほど壊滅してアメリカ海軍の軍艦もゴジラに破壊され、このままでは占領軍の基地も破壊されて兵士にも被害が出て……なにより極東の軍事バランスが狂って、ソ連が一気に極東に進出してくるかもしれないではないか。ならば、朝鮮戦争(1950~1953)の最中にゴジラが来襲するという設定ではどうだろうと思った。ゴジラ第1作は1954年公開だし、その前という設定にも無理はない。アメリカ軍は朝鮮戦争にかかりきりで日本のことは日本でやってくれということになった、というのは……?
 しかし、本作のテーマとしては「政府なんかアテにならない!」というかなりラジカルな思想がある。当時の世論としては当然のことだろうし、「混乱を避けるためにゴジラに関することは伏せられている」日本政府の責任を取りたくない体制という設定にも納得がいく。「情報統制は日本のお家芸」という台詞もうまい具合に効いているし……山崎監督としては、アメリカ軍や日本政府は役に立たないものとして、「民間が頑張る姿」を描くべきだと思ったのだろう。それはよく判る。しかしやっぱり、アメリカ軍がまったく関与しない(旧日本軍の戦艦などは使ってヨシと許可が出たとはいえ)のは、どう考えても不自然だなあ。もうすこしマシな言い訳が出来る設定が作れなかったか、と思う。映画を観ている間はあまり気にならなかったとはいえ。

 

 前述のように、おれは「「シン・ゴジラ」の熱烈なシンパなので、「シン・ゴジラ」の世界観を否定するような出来上がりになってるんじゃないかというかなりの不安があったが、それは完全な杞憂だった。
 戦闘機乗りとしての技量は高いのに特攻出来なくて大戸島の不時着基地に帰還した主人公・敷島は、そこでゴジラと出会い、ゼロ戦の機銃を撃てずに基地も守れず、なのに自分はまた生き残ってしまった。
 焼け野原の東京に戻った主人公は闇市で典子と赤ん坊のアキコと出会い一緒に暮らすことになり、機雷除去の仕事に就き、仲間を得る。この仲間が映画のメインになる「船長」「学者」「小僧」。この3人と主人公と典子の5人が、素晴らしい。そして戦闘機の熟練整備工(主人公を憎んでいる)。いやそれに、主人公の家の隣人のおばさん。というと、主要キャスト全員がいい味を出して素晴らしかった。
 それよりなにより……やっぱり、ゴジラが怖い。圧倒的に怖い。人間を咥えて放り投げるゴジラは初めてじゃないの?「続三丁目の夕日」に登場したゴジラもかなり怖かった(怖さでいえば「シン・ゴジラ」より生理的に怖かった)が……合成がモーレツに上手いこともあって、CGとか合成とかあれこれ考える暇もなく、ただただ怖かった。銀座を破壊するシークェンスは、乗っている電車をゴジラに咥えられて高いところからお堀に落下する典子のショットとか、もう凄いとしかいいようがない。海上で主人公たちが乗った機雷掃海艇を追いかけてくるところなんか無茶苦茶怖かった。
 そして、やっぱり、ゴジラと言えば「伊福部サウンド」!対ゴジラ作戦が始まると、満を持したように流れる伊福部サウンドに、思わず「待ってました!」「ニッポンイチ!」と叫びたくなった。叫ばなかったけど。しかし、手を握り締めて「よし!」と思ったぞ。自衛隊は登場しない(この時代、まだ存在していない)ので、例の「自衛隊マーチ」は鳴らなかったが。
 典子が死んで、もう失うものは何も無い、自分も死んで戦争にケリをつけようと、主人公は「ゴジラ決死隊」に参加する。「日本は今まであまりに命を粗末にし過ぎてきた。しかし今回は民間がやるのだから、みんな生きて帰ってこよう!」とは言うけど……主人公は死ぬつもりだ。ああ、これで特攻を美化されるのは嫌だなあ、と思ったが(「さらば宇宙戦艦ヤマト」では完全に特攻を美化してから)……。
 「学者」が立案した大規模な「ゴジラを急激に沈めて浮かせて破裂させる作戦」は失敗したが、主人公の特攻で、ゴジラの頭部を完全に破壊することに成功……したが、主人公は脱出装置で脱出に成功していた!よかった!特攻しなくて良かった!
 そして……死んだと思った典子も生きていた。
 いい終わり方ではないか!
 「肉弾」的ゴジラ、素晴らしい作品になったと思う。

 

 千葉のZOZOタウン球場にフルボリュームで流して再収録した「ゴジラの鳴き声」は、この劇場の音響では堪能出来なかった。音響自慢の劇場でもう1回観ようかな。
 そして、ゴジラに破壊された銀座に呆然と立ち尽くしていた橋爪功にしか見えない人物について検索したら、やっぱり多くの人が「あれは橋爪功だよね」と書き込んでいた。橋爪さんはその後で重要な役で出てくるのかと思ったら、完全なカメオだったようだ。調べると、他にも梶原善とか複数のカメオ出演者がいたようだが……おれには判らなかった。それを確かめるためにも、もう1度観ようかな。
 ただ……本作のゴジラの姿勢が気になった。これまでのゴジラは猫背だったが、本作では背筋が伸びているというか、反り返って虚勢を張ってる感じがあって、それに違和感を覚えた。気のせいかな?
 
 大ヒットしているらしい。悔しいが「シン・ゴジラ」の記録を超えるようだ。また新作を、というハナシは当然出るだろう。しかし……アメリカ版のゴジラは観る気もしないし、国産ゴジラに、新作を作る余地はあるのだろうか?

 

*付記*

 書き忘れたのだが、ゴジラの頭部を吹き飛ばして海底に沈んでいく姿に対して(?)ゴジラと戦ってきたもの全員が敬礼するが……これが解せない。本作のゴジラは、こういう形で死に対して敬意を表される存在ではないから。

 それと、銀座のシークェンスで米兵も米軍のジープも交差点で交通整理する米兵の姿も一切ない。東京は占領下ではないかのようだ。唯一「PX」の看板は出てくるが。そこまでして「アメリカの影」「アメリカ軍の存在」を消したいのか?主人公の隣人(安藤サクラ)が東京を焼け野原にしたアメリカへの怒りは口にせず、生還した主人公を「(負けたのは)あんたらのせいだ!」みたいに詰るが……。まあこれは、その後の主人公の苦悩や「自分の中ではまだ終わっていない戦争」を強調する意図だと解釈できるけれど……。

2020年2月 5日 (水曜日)

「男と女 人生最良の日々」の感想(ネタバレあり)

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脚本・監督:クロード・ルルーシュ

TOHOシネマズシャンテにて

 

 1966年の「男と女」、1986年の「男と女Ⅱ」(これは未見)の、続篇。

 スクリプターからプロデューサーになって「アート系ばかり作ってて首が回らなくなって」獣医をしている娘の近くの街でアクセサリーショップ(なのか?)をやっているアンヌ。老いはあるが、カクシャクとして言語明瞭で元気で、しかも、美しい。この時点でもう、昔からのファンとしては涙。

 そこに初老の男がやって来て、「父に会ってくれないか。認知症が進んできているが、あなたのことばかり言っている」と。

 こうなると、66年の、あの鮮烈な映像が見たくなる!ルルーシュは観客をその気にさせて、「観たいでしょ?」というように、66年の「男の女」から印象的な場面を挿入する。

 鳴呼美しいアヌーク・エーメ。カッコいいジャン=ルイ・トランティニアン。

 元レーサーのジャン=ルイ・デュロックは高級老人ホームに入っているが、みんなと歌ったり慰問の歌手の歌を聴いたりするのが嫌いで、美しい庭で一人ソファに身を沈めて昏睡むのが好き。

 そこにやってくる、アンヌ。ジャン=ルイは彼女がアンヌとは判らない。

「あんたは新入りかい?昔、あんたにそっくりな女を愛した……しかしおれは人間としてダメだったから別れてしまった」

 トランティニアンは、老いを強調したようなメイクで、髪は薄くてヒゲぼうぼう、目は鋭いけれど、往年の面影は薄い。ここでおれみたいなファンはまたしても泣いてしまう。

 これはドキュメンタリーではないんだけど、どうしても役と現実を混同してしまって、「半分ボケてついさっきのことを忘れてしまうじいさん」と化したジャン=ルイに涙する。それは、「栄光の若き日」への惜別。

 66年の映像がこれでもかと挿入されて、嫌でも「あの頃の光り輝いていた日々」が思い出されて、切ない。思い出が甘美であればあるほど、現実は苦い。

 観る方も、どうしても我が身に置き換えてしまって、感傷の涙がぶわっと溢れ出る。

 観客席を埋めるのは、おれより「人生の先輩」ばかり。61歳のおれは、この中ではちゃきちゃきの若手だ。みんな、人生のいいときに「男と女」を観たに違いない。

 おれはまだガキだったし、封切りではなくテレビ……いや、リバイバル公開で観た(はず)。しかしいっぺんにこの映画の虜になって、少数の製作スタッフの超低予算で短期間に撮ってしまった、その製作システムも研究して、こんな映画を撮りたいと思ったものだ。

 しかしこの作品は、低予算でガリガリ撮っていた手練れの猛者ルルーシュだから出来たことで、日芸の学生が真似できるものではなかった、才能の格差もあるしね。

 

 アヌーク・エーメは老いたとは言えカクシャクとして美しい。人生の貫禄があって、理想的な老境。しかし……老いさらばえたジャン=ルイ。

 半分ボケたジャン=ルイは「おれはハンサムだったから女にモテた」と豪語していたが、それはジャン=ルイ・トランティニアン本人のことでもある……。とか、そういうことを思っていると、涙が止まらなくなってしまった。

 しかし!ルルーシュがそんな単純な「若き日のノスタルジー」だけの映画を作るわけがない。後半、愉快なドンデン返しが待っていた!

 66年の「男と女」でも、現実の中に無想する場面がぽんと挿入されていて、それがギャグになっていた。ジャン=ルイがアンヌに職業を聞かれてレーサーと言えず「パリの色街でブイブイ言わせているヒモ」の場面がいきなり入ったり、アンヌの回想がだしぬけに入ったりと、時間と空間に移動が自由な作品だったが、そのテイストを今作でも使っていて、スピード違反を取り締まる警官をアンヌがいきなり撃ち殺してしまったり。

 最初は、あまりの展開に「これはどういう映画なんだ!」と驚いたが……やがてそれは幾つか挿入される「無想シーン」だと判って大笑いになる。

 その、人を食った間合いがとてもいい。

 ドーヴィルの、あの印象的な、思い出に残る海岸線。その砂浜にあるボードウォークをふたりを乗せたシトロエン2CVを走らせるが管理人に止められる。

「50年前にマスタングでここをぶっ飛ばしたバカがいて……」

「それはおれだ」

 ああ、なんといい会話だろう。クソジジイ然としたジャン=ルイが言い放つのだ。「それはおれだ!」と。

 あたしゃ、感動しましたね。

 

 そういうこともあって……ジャン=ルイの認知症は、実は詐病で、周囲を戸惑わせ混乱させて喜んでるんじゃないか、と担当医は内々に思っていることが判る。

 そう言えば……最初からジャン=ルイはアンヌだと判っていたけど、かなり恥ずかしいから「よく似た女」と言うことにして、本心を吐露したのか……。

 そう思うと、それはそれで、涙涙。

 レースの仕事から手を引いて引退して、足腰も弱くなり記憶ハッキリしなくなって「死ぬのを待っている」状態。おれの仕事には「引退」はない(注文がなくなって誰も相手にしてくれなくなったときが引退だろう)が……アンヌは自分の店を切り盛りしなければならないから引退は、ない。しかしジャン=ルイは引退して、何もすることがなく、老人ホームで「余生を送っている」が、それはすなわち、「死ぬのを待っている」状態ではある。

 ここで、「人間の尊厳」と言うこと考えてしまう。

 実際の彼らは、みんな「やって来た人たち」だ。みんな凄い実績を残している。胸をはって「おれはやってきたんだぜ!」と言える。

 そういう老人になりたい。たとえ寂しい末路であろうが、「だけど、おれはやって来たんだぜ」と胸をはって、言いたい。それが人間の尊厳であり、尊厳のある人生であり、老後なんだろうと思う。

 

「私だって、私なりに やってきたんです」

 これは、北沢楽天の人生を描いた映画「漫画誕生」のキャッチフレーズだが、この言葉は心に染みる。そして、この「男と女 人生最良の日々」に出てくる人たちみんなが、そう思っているはずだ。

 前半は泣いて、後半は実にユカイで、なんだかホッとして、嬉しくなった。

 66年の「男と女」でアンヌの娘、ジャン=ルイの息子を演じたちびっ子ふたりが、そのままの役で、成長した姿を見せてくれる。それも凄い感動。ああ、あの子が……こんなに立派になって……と近所のじいさんみたいな感慨が湧き出る。

 

 「若いもんには負けないぞ!」的な単純な映画ではない。老いの問題とか、引退後の生き方・生き甲斐とか、いろんな事が内包されていて、それがルルーシュ流のひねたユーモアに包まれている。

 しみじみと、いい映画。あの暴れん坊でガキ大将だったルルーシュも、こんな映画を作る境地に達したんだね。

2020年1月14日 (火曜日)

「家族を想うとき」の感想

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脚本:ポール・ラヴァーティ 監督:ケン・ローチ
ヒューマントラストシネマ有楽町にて

 

 ケン・ローチの前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、病気になって生活保護を受給するしかなくなった大工が直面する硬直した官僚的なシステムに憤慨しつつシングル・マザーとともに奮戦する物語で、描かれる現実はかなり苛酷なのだが英国的なユーモアを交えた語り口に魅せられた。
 この作品で引退を宣言したケン・ローチだが、ますます悪化していく英国社会に黙っていられなくなって引退を撤回して、本作を作った。
 だから、本作にはユーモアはなく、怒りが充満している。ただただ厳しい現実を見せられる。「やりがい搾取」の世界。これは英国だけの問題ではなく、全く同じ事が日本でも進行中だ。前作で問題提起された事も、日本と全く同じだし。日本だと、コンビニを舞台にしたほうがいいかもしれないが……。
 英国でも日本でも、どんな業種でも「フランチャイズ」って、本部にいいようにされて現場の人間はすべてを吸い取られて捨てられる。悪魔のシステムと言われても仕方がない。
 救いは、ない。前作も、主人公が死んでしまうのが一種の救いになっていた。新自由主義の今の世の中は、死ななきゃ楽になれないのだ。
 映画は「ターナー一家」を描いている。
 父親のリッキーは建設や造園の仕事をやっていたが上手くいかず、独立自営業者として宅配の仕事を請け負う。このシステムは実に巧妙で、「働けば働くほど儲かる。頑張ればその分儲かる」と言われるが、配達に使う車を借りると高額だし、ノルマはきつい。事故起こしても怪我を負っても自己責任。配達できなくなった分は自力で誰かを手配しなければならず、それができなければ厳しいペナルティが科せられる。
 どう考えても、「まんまと搾取される」構造だと思うのだが、こういう「ゼロ時間契約」は英国では増加していて、単純労働から近年では大学講師や医療専門職などの専門職にも拡大しているらしい(「ゼロ時間契約の増加は何故問題か」←リンク)
 強力だった英国の労働組合もいつの間にか牙を抜かれて、労働者を守らない機関に成り下がってしまったらしい。これは日本も同じだ。いや、日本は昔から会社ありき・会社を守るための労組だったけれど……。
 父親リッキーも仕事に追われてまったく報われないが、家族の時間が持てないと嘆くところは日本よりも人間的じゃないかと思ってしまう。日本は「残業するのが美徳」で遅い時間に帰宅するのが当然みたいなことになっていた。しかし、昭和40年代頃までは、サラリーマンは定時で退社して、ちょっと飲んでも19時くらいには帰宅して、家族団欒の夕食を食べていたんじゃなかったか?
 リッキーよりも母親のアビーの方が苛酷だ。介護職の彼女はリッキーの強い要求で仕事に必要な車を手放してバスで移動しなければならず、介護の仕事は気苦労も多い。そして学校から呼び出される。ルールにがんじがらめになって、非人間的な対応を強いられるのも同じ。いや、人間を相手にしている分、アビーの方が大変だ。おまけに短気なリッキーと子供たちの間に入らなきゃならないし……。
 必死で働いているのに、報われない社会。ホリエモンは「やり方が悪い」と突き放すんだろうけど……そりゃ、もっと利口なやり方はあるはずだとは思う。しかし、すべての一般人が「もっと利口なやり方」を見出せるとは限らない。何でもかんでも自己責任として切り捨てる今の社会のあり方が正しいとは全く思えない。

 

 リッキーや上司のマロニー、そして子役の二人はほとんどアマチュアだがオーディションで選ばれ、アビー役のデビー・ハニーウッドは映画初出演。ケン・ローチは彼らの生の表情を的確に捉えている。
 そして、見事なのは脚本。フランチャイズの宅配業の苛酷さや問題点、訪問介護の仕事の歪み、家庭生活への圧迫などの色組んでお互いが絡まった難しい問題を整理して魅せてくれる手際は素晴らしい。それをきっちり見せてくれるケン・ローチの演出は可不足なく安定していて説明不足や曖昧な描写で「え?なんで?」と思わせるところがない。見事だ。
 このへん、日本の是枝監督と相通じるものがある。対象を熟知しているからこその明解さと、あえて残す問題点。

 

 この作品は救いはないが、あえて言えば、子供たちの優しさか。妹ライザはとても聰明でしっかりしているし、兄のセブも危なっかしいし反抗的だけど芸術的才能があって、反抗していても両親のことを思っている。この二人がしっかりしている限り……。

 

 帰り道に見た有楽町の町はきれいだし、山手線の車窓から見る丸の内や秋葉原もきれいだ。しかし……。
 繁栄の裏には搾取がある。こういう社会構造は時間をかけて是正されたはずではなかったのか?50年かけてマシになってきた社会は7年で元に戻ってしまった。
 まさに生き血を吸われて疲弊した社会。こんなへろへろな状態は長続きしない。社会全体がへこたれてしまうか、民衆がノーの意思を突きつけるか。
 日本は、国全体が無気力になってへこたれている。しかし英国はEU離脱を含めた変革を求めた。それはアメリカも同じで、搾取されまくってきた層が、トランプに走ったのだ。
 どっちにしても、「報われない社会」「搾取され続ける社会」は長続きしないよ……。

2018年12月29日 (土曜日)

「私はマリア・カラス」の感想

監督:トム・ヴォルフ

bunkamuraル・シネマにて

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 人間の幸福とはなんだろう?と思う。

 マリア・カラスは、アーティストとしては幸せだったのだろうか?世界的大成功を収めたけれど、満足して納得のいくキャリアだったのだろうか?自ら限界を感じて引退して後進の指導に専念したのなら、自分で区切りをつけたのだから納得がいったはずだが、カラスの場合は、後進の指導をしつつ、舞台復帰に執念を燃やしていたと……。

 私生活では幸せだったのだろうか?これは……傍から観ると、「男運が悪い」「男の趣味が悪い」としか思えない。年の離れた紳士と恋愛に落ちるのはファザコンだったんだろうけど。

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 このプライベート写真のカラスは、可愛い。幸せに満ちている。

 なんかねえ、こういう幸せに満ちた写真を見ると、孤独に亡くなった晩年が哀しい、と感じてしまう。

 マリア・カラスに関してはいろんなインタビューがあり、ドキュメンタリーも作られて、かなりの映像を目にしているが、この作品に登場した映像はどれも鮮度抜群で、美しい。5年をかけて徹底的にオリジナル映像を探し当てたそうだが、それをデジタル技術を駆使して修復して傷を取り、シャープさを増し、しかも、カラー化している。

 よくもまあこれだけの映像を掻き集められたな!と、それだけで驚嘆するのに、画質は良好でとても自然なカラー化。白黒オリジナルを見た事があるのに、「あれ?これ、本当はカラーだったの?」と思ってしまうほど。

 初公開の映像は多かったが、音も、初公開のものを多数使っているらしい。

 フランスの「視聴覚研究所」には、過去フランスで放送された(現存する)すべてのラジオ・テレビ番組がアーカイブされているらしい。ミュンシュ/パリ管の演奏録音はEMIから出ているものとは違うマスターが保管されていて、そっちの録音の方が良好だったりする。

 この作品で使われているものは拍手が入っているものが多かったので、たぶん、INAに保存されていたライブ録音が使われているのだろう。EMI原盤のCDよりもいい音になっている。ル・シネマの再生装置がいいこともあるだろうけど、映像と音のリマスターは素晴らしい。

 マリア・カラスだけ、どうしてこんなにスキャンダラスに報じられる対象になってしまったんだろう?公演のキャンセルなんて他の歌手だってやってるのに。

 それだけ際だって目立つ存在で、ポップスター以上のプレゼンスがあったのだろうけど……。

「2人の私がいる」とカラスは言ったが、この作品の映像を見る限り、もっと多くのマリア・カラスが居たように思えてくる。

 デヴィッド・フロストの番組に出たカラスは英語で喋って快活に笑うが、その姿は完全なアメリカ人。ニューヨークに居る元気な女性。

 しかしフランス語でインタビューに答える姿は、落ち着いたヨーロッパ人。

 たぶん彼女はギリシアではまた別の顔を見せるのだろう。

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 オペラ好きなら、絶対に無視出来ず避けて通れない、マリア・カラスという不世出の大歌手。

 最初の問いに戻ってしまうが、彼女は幸せだったのだろうか?

 天才は幸せな人生をおくれない、というのはやっぱり真実なんだろう。天才という存在は、凡才を苛立たせて必要以上に敵意を感じさせるのだろうか?多くの天才は凡才によって潰され、葬られているのだから。自滅した天才も居るけど……。

 マリア・カラスの人生を追いながら、もっと人間の「生きること」の根源にまで踏み込んだこの作品は、一回見ただけではその含蓄するところは理解出来ない。それは、ある人物の人生を簡単には理解出来ないのと同じだ。

 マリア・カラスについて、いろいろと映像に触れて考えていると、哀しくて仕方がなくなってしまう。

 それが、人生というもの。なのだろうか?

2018年8月26日 (日曜日)

「カメラを止めるな!」の感想(*ネタバレ注意!)

脚本・編集・監督:上田慎一郎

上野TOHOシネマズにて

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 完璧な映画。

 映画でしか表現出来ない、これぞ映画。

 そう叫びたくなる映画は、あまりない。しかしこの作品は、どこからどう見ても、完全な、映画だ。

 「ポン!」と叫びたいぞ!

 ワンカット長回しが好きではない。だから相米慎治も戦後の溝口健二も苦手だ。カット割れ!寄れ!引け!切り返せ!と叫びたくなる。

 この作品の冒頭37分のぶん回し手持ちぐらぐらの超長回しを見ていて、この調子が90分続くとしたら、超駄作じゃないか、素人のお遊びじゃないか、ホラー・スプラッタが好きなのは判るが、こんなアマチュアのヘボ映画は観たくない……と思っていたら……早々とローリングタイトルが流れて……。

 映画は1ヵ月前に遡る。

 ここからは普通にカットが割られた安定したショットになって、冒頭30分の「ゾンビ・チャンネル放送記念生放送1カットドラマ」の企画が立ち上がって準備が始まる。

 映画の中ではそこそこ名のあるイケメン俳優という設定の男優に、演技派の脇役、アイドルが集まるが、あくまでこれは設定で、実際は、キャスト全員がほぼ無名。

 スタッフ・キャストが寄せ集め、というのは三谷さんの「ラジオの時間」のようで、プロデューサーがいい加減というのも「ラジオの時間」の匂いがする。しかしまあ、この設定自体、三谷さんの発明ではない。昔のハリウッドのシチュエーション・コメディに元ネタがあるはず。

 で、集められた面々のキャラが面白い。特にやたら神経質で「メールでお願いしといたんですけど。メールで!」を連発する録音助手とかアル中の脇役俳優とか、仕事に飢えてるけどあまりいい仕事に恵まれない監督とその妻(護身術に凝っているというのが大きな伏線になる。ぽん!)とか、実にいい。

 なんだかんだを乗り越えて、本番の日を迎えるが……メイクさん役の女優と監督役の男優が渋滞に巻き込まれて現場に到着しない。しかし生放送。代役を立てるしかない。

 ということで、監督自ら監督役をやり、奥さんがメイクさんの役をやることに。

 ここからが、怒濤の展開。生放送だから、止められない。三谷さんの「ショウ・マスト・ゴー・オン」だ。とにかく続けなければならない。

 冒頭の37分の長回しを、舞台裏から描く。これは「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」だ。マーティたちがいろんな困難を乗り越えてデロリアンに乗るまでを正反対の側から描く、あの手法。

 これを成功させるには、綿密な構成と正確な演出・編集が絶対に必要。ツジツマが合うことが絶対に必要なのだ。

 そして、それに見事に成功している!素晴らしい!

 冒頭37分の長回しの中で、「ナンダコリャ」と思えるヘボい部分が何ヵ所もあったが、それはすべて伏線だった!長回し故、次の準備ができていない場つなぎで、やむなく無意味な会話を続けたり、同じ動作を繰り返して、焦らしてるのかと思ったらそうではなかったり、意味ありげな者が映り込んだり……その裏側というか、ネタばらしが最高におかしくて涙が出た。

 途中で設定が狂ってしまったけど、「あれ」をやれば何ページの何行目に戻れるとか、サスペンスもあるし、もう、映画的ワクワクに満ちている。

 何と言っても、すべての失敗や失策、アレアレと思った部分はすべて伏線であって、それは完璧に鮮やかに回収されるのだ!

 37分の長回しは、カメラの視点が何なのか、凄く気になったし、カメラがズームしたりパンしたりするのはカメラに意志があるわけで、これは誰の視点だ!ここが曖昧だとド素人が作ったヘタクソな失敗作だぞ!と思っていたら……完全な手練手管の中で、本当に見事に回収される。

 舌を巻きましたね。

 こんな完璧な映画、そうそうない。

 そしてこれは、映画そのものだ。

 映画でしかやれないよ!

 上田監督は、映画というものを熟知している。それはもう超ベテラン級だ。これが長編第1作というのが信じられない。

 「三谷幸喜を真似て三谷幸喜を越えた」という映画評もあるようだけど、一見、形は似てるけど、やっぱりまるで違う。

 先行作品にインスパイアされて、手法を真似ることはよくある。

 市川崑の名作「炎上」では、1ショットの中で現実から過去の回想になってしまう(言葉で巧く表現出来ない)ウルトラ・テクニックを使っているのだが、これはスクリーン・プロセスを応用したものだと市川さん本人に聞いた。

「アメリカ映画に『セールスマンの死』というのがあって、その中でスクプロを上手に使うてたんや。巧い手法を真似ることはまったく何の問題もない」

 と、市川さんは言った。

 その通りだと思う。

 一部で面白がって盗作とか言うヒトもいるが、この場合は、まったく無意味だ。

 題材は似ているが、手法はまるで違う。ましてや、舞台と映画では、表現方法や演出はまったく違うだろう、同じにやれるはずがないのだ。物理的に。

 裏側を描くという意味では、むしろ「アメリカの夜」の要素の方が強い。

 というか……。

 映画の現場を知れば、こういうドタバタは毎日のようにあって、巧くいったときの爽快感は何物にも代えがたい。だから「映画は三日やったら辞められない」と言われるのだ。キツいけど。

 その現場を知っているので、37分超長回し生放送を支えるスタッフの大奮闘に大笑いして……感動で涙が滲む。

 思えば、大混乱する現場を見事に収拾する超人的マネージャーの奮闘も描く(メインは中年のラブロマンスだけど)ビリー・ワイルダーの「お熱い夜をあなたに」という作品もあった。

 そういう過去の映画の記憶を散りばめて、上田監督は、奇跡的な成功を収めた。

 作品の完成度はもちろん、超低予算で作った作品が、都内2館での公開が、話題が話題を呼んで全国100館を越える拡大公開になったという、日本ではあり得ないんじゃないかと思っていたブロックバスター的というかシンデレラ・ストーリー的と言うかの興行的大成功。

 スタッフ・キャストが全員(ほぼ)無名でも、有名無名は関係ない。才能があるかないかだけだ。

 あたしゃ、「魔法の言葉」に酔い痴れましたね。

 ぽん!

2018年4月 8日 (日曜日)

映画「ペンタゴン・ペーパーズ」の感想

脚本:リズ・ハンナ、ジョシュ・シンガー

監督:スティーブン・スピルバーグ

上野TOHOシネマズにて

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 快作!

 世界中のマスコミ関係者に見て貰いたい!特に日本の新聞関係諸氏に。

 なんでもでもアメリカ万歳という気はさらさらない。ベトナム戦争絡みのあれこれはアメリカ国民への激しい欺瞞であったし、多大な犠牲も出しているのだ。それはアメリカ人だけではなく、当然ながらベトナム人も。

 それに、ワシントン・ポストが完全無欠の絶対正義に立脚したスーパー新聞だという気はさらさらない。アメリカの国益に反することには敢然と立ち向かって、沖縄の基地問題でアメリカに対立姿勢を見せた鳩山首相をルーピーと呼んだのもワシントン・ポストだから。

 それはそうだが、この映画は素晴らしかった。

 重大な事実の隠蔽、重大な書類のリーク。報道の自由。

 これらは今のアメリカ、そして日本かと思うほど今のテーマだ。

 最後はもう涙ぐんで、見た。

 「アメリカは負けない」という不敗神話を日本人は笑えない。アメリカの前に「神国日本は絶対に負けない」と豪語していたんだから。

 冷戦下において、アメリカは負けることを許されなかった。と、歴代アメリカ大統領は信じて来た。国民はアメリカが負けることなど断じて許さないだろうと。実際は、厭世観が強まり、ヒッピー文化やラブ&ピースのムーヴメントが広がっていたのに……。

 この映画が優れているのは、「不慮の事故(有力マスコミ人として政治にかかわりすぎた夫の自殺)」で社主になったキャサリン夫人が、お金持ちの主婦から超一流の「覚悟を持った」マスコミの巨人」に至る成長物語になっているところだろう。

 メリル・ストリープでなければ演じきれない細かなニュアンスを、見事に表現していて、素晴らしいのひと言。

 そして、トム・ハンクス。彼が言えばどんな事でも真実であり正義に聞こえてしまう怖さすらあるハマり具合で、「会社を潰すかも」という恐怖で逃げ腰になりそうな夫人に強力にハッパをかける。まあ、どっちが辛い立場かと言えば、株主や全社員への責任を持つ社主のほうだよねえ。

 赤狩りのマッカーシーを追い落としたCBSの伝説のキャスター、エド・マローも、CBS社主が防波堤になれずに崩れていく(政府やスポンサーからの圧力に屈した)中で奮戦して、やがてCBSを辞めるのだが……、CBSのペイリー社主も、あの時は大変だったと思う。

 調べてみると、ワシントン・ポストは首都のローカル新聞ではあったがリベラル寄りの「高級紙」だったので、報道の自由を主張して邁進する素地は大いにあった。

 それにしても、70年代初頭は今とは比べものにならない「男社会」で、女の社主というだけで、どれほど風当たりがきつい……それ以前に、相手にして貰えなかった、マトモに扱われなかったか、と思う。

 それを考えると、「報道の自由を守る新聞社の戦い」と同時に「女性社主の成長物語」を描いたのは大正解だった。

 そして……もっとサスペンスを盛り上げる手は山ほどあった。輪転機を回す絶対的〆切に原稿が間に合うかどうか。これは軽く描かれたが……。

 重要な情報を知った主要登場人物が謎の殺し屋に狙われて夜の街を逃げる、とか、安っぽくサスペンスを盛り上げるあの手この手はたくさんあったし、スピルバーグなら、そのすべてを熟知していただろう。エピソードだけではない。もっとアップの切り返しを多用して音楽もおどろおどろしく盛り上げる、とか。

 しかし、この作品ではそういう事を一切やらなかった。

 スピルバーグがオトナになって、大人の落ち着いた演出をするようになった、と言うよりも、この題材ならば、静かにリアルにきちんと描く方が「題材の真実」に迫れると思ったのだろう。そしてその判断は極めて正しかった。

 余計な作為が入っていない、この作品の演出には本当に好感が持てる。

 そして……この時期にこそ、この作品を作って公開しなければならないと感じたスピルバーグの時代感覚に敬意を表する。どんな立派な論文や評論よりも、この映画の方がずっと雄弁だ。エライ先生の文章よりも、この映画を観た方が心を動かされて「報道の自由」は絶対に守らなければならない!と改めて思った。

 今、政権や権力者に忖度して擦り寄って代弁ばかりしている「名ばかりジャーナリスト」「肩書きだけ報道陣」は恥ずかしくないのか!と声を大にして言いたい。

 キャサリンも、かつては政界の大者と仲よくして「お友達のことは悪く書かないでほしい」と思っていたのだが……究極の選択を突きつけられて、彼女は、正しいが困難な方を選んだ。

 人間、そうありたいものである。

 微力ながら、残された時間を、そうあるよう、努力したいと思う。

2018年2月23日 (金曜日)

「キングスマン:ゴールデン・サークル」

脚本:ジェーン・ゴールドマン、マシュー・ヴォーン 監督:マシュー・ヴォーン

シネマ・サンシャイン池袋6にて

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 この映画について、あーだこーだ書いても仕方がないというか、面白さは伝わらない気がする。

 一番いいたいのは、「やっぱりハリー(コリン・ファース)は生きていた!」ってこと。

 このシリーズは、コリン・ファースが絶対に不可欠。普段はこんなメチャクチャなアクションと無縁の、基本的にシリアスな演技派がこういう事をやって、しかも、アクションがキマッてるところが凄いのだ!

 

 前作の延長戦では作る意味がないということで、のっけに「キングスマン」本部を始めすべての施設やメンバーが消されてしまう。その犯人は、「麻薬や覚醒剤を合法化しろ!」と主張する密売組織。今やジュリアン・ムーアは「アメリカのお母さん」的な女優さんなんだねえ。で、彼女の主張「麻薬や覚醒剤を合法化して課税すれば取り締まりコストがゼロになるし税収も増えるしいいことずくめじゃないか!」には、うっかり賛同しそうになってしまった。その意味では、実に巧妙な脚本!

 スウェーデンの王女も使ってるしエルトン・ジョンも使ってるしアメリカ大統領の補佐官も使ってるし……と、ええのんかい的展開。そして大統領の「この際、麻薬や覚醒剤の常用者はみんな集めて死ぬに任せてしまえば一挙両得だ!」という方針にもうっかり賛同しそうになってしまった。う~む。アブナイ脚本だなあ。

 しかし、エルトン・ジョンの使い方は、特別出演ではなくて、もう、コケにするわリスペクトするわ主人公を助けるわ、大車輪の活躍をするのには驚いた。

 英国の独立秘密諜報機関「キングスマン」に対して、アメリカにも独立秘密情報機関はあった。その名も「ステイツマン」。その存在を「キングスマン」が知らなかったのは、「秘密の組織」だから。しかし今まで協同して作戦を実行することはなかったのか?007の世界ではMI6とCIAはツルんでるけど……。

 しかし今は「ステイツマン」は頼りになる存在。しかしその描き方がもう、フジヤマゲイシャハラキリスシスモウカラテの「偏見」という言葉が生ぬるいほどの低レベルなステレオタイプなのが抱腹絶倒。

 バーボン大好きのカウボーイ!

 まあ、キングスマンの格好をした英国人はほとんどいないそうだから(アメリカ中西部に行ったら、こんな格好をしたオッサンがバーでバーボンを煽ってるような気がして堪らないんだけど)、「おあいこ」か。自国を容赦なく笑って、同時にアメリカも笑う。

 続篇が出来るとしたら、この「コテコテ偏見」がどこまで広がるか……フランス人やドイツ人、イタリア人やスペイン人、ロシア人が出てきたらどう描かれてしまうのか。日本人の場合はもう想像がついてしまうけど。

 それはともかく、なんだかんだ言っても「英国とアメリカの特別な関係」をひしひしと感じる。似ているようで違うけど、やっぱり根本では価値感が共有できる関係。あ、続篇はオーストラリアが絡んでくるかも?

 悪趣味ぶりは健在だし、ワンカットで描く「モーレツアクション」も健在。いろんなテクニックが惜しげも無く注ぎ込まれたワンカットのアクションだけど、しかし……どうやって撮ってるんだろう?

 作品的まとまりとコンセプトのハッキリ具合で、第1作方が完成度は高いと思うけど、ハリーの帰還とエグジーの成長(スウェーデンの王子になったのか?)を祝したい!

2017年12月31日 (日曜日)

オリエント急行殺人事件(2017年版)

脚本:マイケル・グリーン 監督:ケネス・ブラナー

TOHOシネマズ上野にて

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 1974年の作品があるのに新作を作るのだから、これくらいの変化がなければ意味はないんだろうなあ。というのが最初の感想。

 なんせ、1974年版の超豪華キャストで奏でられる優雅な祝祭ムードを愛しているから。

 しかし……。

 ケネス・ブラナーは、2017年に新たに作る意味を追い求めたのだと思う。あの原作に、戦争の影を投影することも可能だったし、もっと他にも現代に通じるリアルなテーマを盛り込めた。熟慮した結果、ケネス・ブラナーは、ある事象だけをリンクして描くのではなくて、現代を覆う狂暴で凶悪で正しくないもの、を荒っぽい手法で描き出したのではないか。

 そう思うに至った。

 だから、今回のポワロはかなり元気に動き回って、ドンパチはあるわ格闘はあるわのアクティブぶりを発揮する。

 今までのポワロのイメージは、「あたかも引退したような感じの、自分が興味を持つ事件だけを引き受ける老人」というものだったが、今回のポワロは「世界一の探偵であるという自負を持ったバリバリ現役のイケてる探偵」だ。

 だから、カメラが動きすぎるくらいに動く。車内をえんえん移動するし、大クレーンで巨大な鉄橋(木造?)の下からぶわ~っとあがってくるし。もっとどっしりと撮ればいいのに、と思うけど、今回のポワロを考えると、こういうカメラワークは正解なのだろう。

 そう言えば走っているところも荒涼とした大地や急峻な山を縫ってるし、徹底して現実の厳しさを訴えてる。

 このデジタルの時代に、65ミリネガで撮影された映像は鮮明でとても美しいが、美しいものを映し出してはいない。たぶんそれが今回のテーマなんだと思う。

 ついつい優雅な1974年版と比較してあれこれ言いたくなってしまうが、上記のように考えれば、これはこれでよくやった!という感じがする。「デイジー・アームストロング事件」はこの世における凶悪なモノの象徴であって、復讐を遂げる彼らは、正しい意味で正義なのだ。司法が万全でない以上、どこかで正義は働かねばならない。今の世の中、そんな事が多すぎる。

 上流階級の別世界の浮世離れした復讐劇ではなくて、これは今の時代にも通じる怒りなんだぞ、とケネス・ブラナーは怒鳴っている感じがした。トンネルでの大団円での彼の芝居は、まさにそれだ。

 見た直後は、ちょっと拒絶反応が出てしまったが、こうして考えていくと、いろんなハンデ(優雅な超大作である前作がある、前作のような超豪華キャストではない、などなど)を抱えた上で、大健闘して、ヒリヒリするものを作り上げた、ケネス・ブラナーは凄いのではないか。そう思えてきた。

 でも……おれは1974年版を愛するけど……。

2017年2月27日 (月曜日)

ラ・ラ・ランド

脚本・監督:デミアン・チャゼル

TOHO CINEMAS錦糸町にて

 お帰り、シネミュージカル!

 久々に、映画のための、舞台の映画化ではない、正攻法の「シネ・ミュージカル」が帰ってきた!

 空間を自由自在に使って、映画のマジックも駆使した、映画ならではの、映画でしか出来ないミュージカル!

 シネ・ミュージカルは、オハナシは単純でいい。その代わりに、スターの踊りを見せ、歌を聴かせる。それも、圧倒的な踊りと歌を!

 しかし、それはまあ、「ウェストサイド物語」で変わってしまった。たわいのないオハナシのミュージカルは廃れて、オハナシが重んじられる作品が主流になり……まあこれはほとんど舞台の映画化なんだけど。

 映画のためのシネミュージカルは、近年、ほぼなくなってしまった。「プロデューサーズ」は元々は映画だけど、舞台化されて大ヒットしたので再映画化された……。

 で。

 この作品は、のっけの「大渋滞したハイウェイ」で大ミュージカルナンバーが展開されて、観客の度肝を抜く。

 うわ、凄い!セットではなく、ロケ。しかも、ほとんどワンカットの超長回し。カメラは寄ったり引いたりステディカムを駆使して縦横無尽に動き回る。

 これ、本物の道路を封鎖しての撮影。

 現場のことを思うと気が遠くなる。

 カットを割らないワンカット長回し。それだけでも大変なのに、タイミングを間違えるとNGになるダンスナンバー。それも群舞!

 シネミュージカルに必須の大ハッタリは、大成功!

 あたしゃ、この場面で、嬉し涙を流してしまった。

 こりゃスゲエや!

 アメリカ人が熱狂するのもよく判る……。

 オハナシは、「やりたい音楽」が出来ずに燻っているジャズ・ピアニストと、オーディションに落ちまくっている女優。その夢を実現する葛藤と、二人の恋。

 いいの。ミュージカルはこれくらいシンプルな話しの方がイイの。なんせ歌と踊りを見るものなんだから。

 だから……もっとタップダンスを見たかった!

 ロサンゼルスの街を見下ろす丘で、そろそろこれは……と思ったところで、ジャストなタイミングで二人がタップを踏み出した、その瞬間にはあまりの歓びに狂喜乱舞しそうになった。

 だけど……。

 すぐ終わってしまった。

 もっとね、有無を言わせぬ圧倒的な踊りが見たかった。

 アステアの優雅な踊りでもいいし、ジーン・ケリーのエネルギッシュでアクロバティックなものでもいい、とにかく、呆然とするようなタップやダンスを、これでもかと見たいんだ!

 ライアン・ゴスリングやエマ・ストーンは俳優であってミュージカルの人じゃないから、そういう事を求めるのは間違っているのかもしれないが……ジーン・ケリーやアステアの映画では、「もっと踊りたい!もっと見て貰いたい!」という気持ちがガンガン伝わってきたので……。

 いや、ダンスの場面はたくさんあった。天文台でプラネタリウムを絡めた幻想的な場面は美しいし、クライマックスの「もう一つの人生」を描く長いナンバーも素晴らしかった。

 けど……。

 「バンドワゴン」のセントラルパークでのアステアとチャリシーのダンス、「雨に唄えば」のあの圧倒的な「ブロードウェイ・バレー」と「巴里のアメリカ人」のロートレックなどの絵画を模したダンスナンバーは、連想できた。だけどこれは オマージュと言うより、チャゼルは完全に消化していて、「引用」でもないし「模倣」でもない、オリジナルなモノにしていたが……。

 とにかく、もっとタップダンスが見たかった!

 もっとね、タップダンスのシーンとかダンス・シーンが圧倒的であって欲しかった。湯水の如くダンス場面が現れて、果てることなくタップを踏んで欲しかった。

 踊りを見たいので、ワンテイク撮りに拘ってカメラを振り回していたのが、ひどくうるさいし。

 踊りの場面でカットを割らないのは正解だが、あんなにカメラが動き回ったら、それはダンスの邪魔になってないか?引き画でどん!と撮って欲しいんだよなあ。

 見終わった後口ずさめるメロディもない。

 ラストは、「シェルブールの雨傘」的な、アンハッピーエンドだし……。

 と、見終わった後は不満ばかりが思い浮かんでしまった。

 それだけ、期待していたんだと思う。

 21世紀の今、ミュージカルを作ると、ノーテンキなハッピーなお花畑みたいな映画は作れないだろうなあ、と思う。そんな夢一杯、みたいな映画は完全なウソだし、夢をばら撒くのがエンターテインメントだと言っても、ウソの度が過ぎたらシラケてしまうから……だから、こういう風にするしかなかったんだし、こうでなければいけなかったんだろう。

 でも……。とは言え。

 映画を見終わって外に出て目に入ってきた「夜の錦糸公園」が、いつもとは違うものに見えたのよね。

 なんだか、希望が詰まった夢の空間みたいに。

 主人公の二人がどこかにいるような。

 これは、「絵に描いたような(現実にはあり得ない)ハッピーエンド」にしなかったからか、と思った。

 主人公ミアは、カネはあるけどつまらない男と結婚して女優としても成功している。えーっ!どうしてピアノストの彼じゃないの!

 ミア夫婦はあるジャズクラブに行くと、そこは元カレ・セバスチャンが経営する店だった。思わぬ形で再会した二人は、「もしもの世界」を夢見る。

 それが……とても素晴らしい。圧倒的に素晴らしい!

 ジーン・ケリーとシド・チャリシーが舞った「ブロードウェイ・バレー」と「巴里のアメリカ人」のクライマックス・ナンバーのように、セットを駆使した力の入った場面が展開して……現実に戻る。

 

 これがあるから、なんだか心に残って、翌日、しみじみと感動して、映画を思い出すと泣いてしまうんだろうなあ。

 ひたすらに、この映画が懐かしい。この映画が、妙に恋しい。

 これはもう、もう一度見るしかないか?

 もう一度見たら、挿入歌に親しんで鼻歌で歌い出すかもしれないし。

 よし、近いうちに、もう一度見に行こう!

 しかし、タイトルの「ラ・ラ・ランド(La La Land)」って、どういう意味が込められてるんだろう?

2016年12月18日 (日曜日)

この世界の片隅に

脚本・監督:片渕須直

渋谷ユーロスペースにて

 ほとんど予備知識を入れず、原作も読まずに、かなり白紙の状態で見た。とは言え、被爆を扱っている事は知っていたので、なんとなく「はだしのゲン」を連想していた。まったく無垢な人たちが原爆という不条理な攻撃に遭って、かなり強い抗議と反戦の意志を、優しい絵で描くような……。

 しかし……。その予想は完全に外れた。

 主人公すずさんの平凡だけど穏やかな暮らしを、ディティール豊かに日々、丁寧に描いていくのだ。

 戦前の広島。今のように豊かではないが貧困ではなく、それなりにアメリカ文化が入ってきて、楽しい日々。

 瀬戸内の穏やかで美しい自然に囲まれて、主人公のすずも穏やかに慎ましい日々を送って「たおやか」に暮らしている。絵が上手で、絵を書くのが好き。19になってもまだ幼い少女のようなすずさん。

 そんな彼女に突然、縁談が舞い込み、呉に嫁ぐ。

 小姑(攻撃的だけど、嫌なだけの悪役ではない)との関係に悩みつつも、畑から見下ろせる呉の軍港に浮かぶ戦艦の雄姿に素朴に感動したりする。

 そんな日々を、穏やかなユーモアを交えて温かく描いていく。

 よく、戦前の暮らしは憲兵や特高警察が目を光らせていて、すぐ捕まって拷問される言論統制と恐怖政治の日々、のように思われたりするが、小林信彦の名著「ぼくたちの好きな戦争」が活写したように、戦前の東京は今よりアメリカ文化に対する憧憬が強くて、多摩川の土手でカーレースが行われたりして、結構豊かで楽しさもたくさんあった。笑いだってエノケンやロッパをはじめとしたモダンな笑いもあった。

 それは、中国戦線が膠着状態になっても、アメリカとの戦争が始まっても、しばらくの間は保たれた。しかし……。戦況が悪化するにつれてすべての物資が不足して、耐乏生活が始まる……。

 日々を懸命に、しかし、楽しく心豊かに生きているすずさんの頭上にも爆弾が降ってくるようになってしまう。

 頭上をアメリカの爆撃機が飛び、高射砲が撃ち落とそうとする。敵機の破片が降ってきて、それで命を落とす人も多かった。

 

 これまで、穏やかな日常を丁寧に描いてきたから、すずさんの生活と観客の気持ちが同化したときに訪れる、戦争の恐怖。

 空襲が始まるときに、庭先に降り立った白くて大きな鷺。「ここに居ては危ないよ」と庭から追い立てるすずさん。その鷺はゆっくりと広島の方に飛んでいく……。

 すずさんは空襲に遭い、義父さんに助けられたが……義父さんは倒れたままで……。

 実は夜勤明けで眠くて仕方がなかったんだというオチがつく。

 この緩急自在の、ユーモアが自然に同居するタッチが素晴らしい。

 普通の生活には笑いがつきものだもの。

 すずさんが呉港をスケッチしていたら憲兵に捕まって家宅捜索される場面も、すずさんにキツい小姑や義母が怒りで(憲兵に疑われるという恥辱をもたらしたすずさんに)身を震わせている、のかと思ったら、のんびり屋のすずさんに「間諜活動なんか出来っこない」から、大真面目な憲兵の言葉に笑いを堪えていた。

 こういう場面の数々があるから、そのあとの、呉大空襲や、広島の原爆投下の描写が胸に響く。

 絵を描く右手は、姪の晴美と共に吹き飛ばされてしまう。

 原爆の直接の被害は免れたけど、実家の両親は死に、妹も体調が悪そうで……。

 一番心に刺さったのは、ラスト近くで視点がすずさんから離れて、ガラスが身体中に刺さったまま原爆投下後の広島の街を徘徊う母子の姿の場面。

 母はすずさんと同じように右手がない。疲れ切って座り込んだまま、母は死んでしまった。ウジが湧くその死骸に縋り付いたままの小さな女の子。

 広島を訪れていたすずさん夫婦が落とした海苔巻を拾う、その子。落としたよと差し出すと、「食べてええよ」と言われて食べると、まるで捨てられた子猫のようにすずさんに身をすり寄せる、その子。

 この場面は、抑えたタッチで描かれるからこそ、悲しい。悲しくて仕方がない。

 号泣はしない。

 しかし、じわじわきて、止めどなく涙が湧いてきて、客席から立てなくて、困った。

 とにかく、じわじわと万感胸に迫って、堪らない。

 しみじみと泣く、というのでもない。なんだろうね、この感情は。

 素朴に感じたのは、「生きていることの幸せ」「生かされている事への感謝」という気持ち。それを思うと、一切のワガママとかこだわりとか、モロモロなものが消えていく。浄化されたような、まあ、魂の浄化って、そんなに簡単なものではないと判っているけど、ほんの少しだけ、そんな気持ちになれた。

 プログラムを開くと、「生きるっていうことだけで涙がぽろぽろ溢れてくる、素敵な作品です」とすずの声を担当したのん(能年玲奈)の言葉が載っていた。

 彼女あってこそ、すずさんには命が吹き込まれて、「のんびりほんわかしているけど、あんまりひどいことになったら我慢しない」という生きた人間になった。そして、こういう人が戦争に巻き込まれてひどい目に遭う不条理を、心の底から憎みたくなる。

 プログラムによると、のんは、実に的確に役を把握していたそうだ。これは天性のものだろう。

 

 思えば……今、シリアでは、この映画で描かれたことと同じ状況で、シリアのすずさんが毎日犠牲になっている。それを思うと……。

 この作品は、過去の、昭和8年から21年の「過去」を描いたものではない。今も同じ事が世界のどこかで起きている……。

 タイムマシンを使って当時の写真を撮ってきたかのような綿密な再現をした、徹底した取材をした片渕監督とスタッフには、執念を感じる。この作品はきちんと作らなければならないと思ったからには徹底する。

 凄いことだと思う。

 小説と違って映画やアニメは、すべてに対して具体的な描写が必要になる。家も道路も衣服も食べ物も……。そのすべてをコツコツと調べ上げた努力と根性に敬服するし、その綿密な調査取材から生まれた描写が、物語を推進している。リアルな描写が物語を生み、深い意味を感じさせる。

 

 丁寧に描いているだけかと思えば、シネカリグラフのような技法も使ってすずさんの状況の激変を端的に表したり、多彩な表現を使いきっている。

 粘りに粘った甲斐のある、しかし監督の執念を画面には一切見せない、優しさと愛情溢れるタッチ。だからこそ、この作品は、しみじみとした感動を呼び、心に残り、思い出すと涙が溢れてくるのだ。

 声高にテーマを叫ぶより、こんな形で静かで優しいタッチでしみじみと語られる方が、効く。観客は、すずさんと一緒に戦前の平和な昭和を生き、戦争の影が徐々に濃くなる不安を覚え、空襲の恐怖を共有し、原爆に衝撃を受け、戦災孤児を保護する。

 この作品だからこそ、「一緒に生きて体験できた」という気がする。これはバーチャル以上のバーチャルではないか。魂がスクリーンの向こうに飛んでいったのだから。

安達瑶の本

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