映画・テレビ

2018年8月26日 (日曜日)

「カメラを止めるな!」の感想(*ネタバレ注意!)

脚本・編集・監督:上田慎一郎

上野TOHOシネマズにて

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 完璧な映画。

 映画でしか表現出来ない、これぞ映画。

 そう叫びたくなる映画は、あまりない。しかしこの作品は、どこからどう見ても、完全な、映画だ。

 「ポン!」と叫びたいぞ!

 ワンカット長回しが好きではない。だから相米慎治も戦後の溝口健二も苦手だ。カット割れ!寄れ!引け!切り返せ!と叫びたくなる。

 この作品の冒頭37分のぶん回し手持ちぐらぐらの超長回しを見ていて、この調子が90分続くとしたら、超駄作じゃないか、素人のお遊びじゃないか、ホラー・スプラッタが好きなのは判るが、こんなアマチュアのヘボ映画は観たくない……と思っていたら……早々とローリングタイトルが流れて……。

 映画は1ヵ月前に遡る。

 ここからは普通にカットが割られた安定したショットになって、冒頭30分の「ゾンビ・チャンネル放送記念生放送1カットドラマ」の企画が立ち上がって準備が始まる。

 映画の中ではそこそこ名のあるイケメン俳優という設定の男優に、演技派の脇役、アイドルが集まるが、あくまでこれは設定で、実際は、キャスト全員がほぼ無名。

 スタッフ・キャストが寄せ集め、というのは三谷さんの「ラジオの時間」のようで、プロデューサーがいい加減というのも「ラジオの時間」の匂いがする。しかしまあ、この設定自体、三谷さんの発明ではない。昔のハリウッドのシチュエーション・コメディに元ネタがあるはず。

 で、集められた面々のキャラが面白い。特にやたら神経質で「メールでお願いしといたんですけど。メールで!」を連発する録音助手とかアル中の脇役俳優とか、仕事に飢えてるけどあまりいい仕事に恵まれない監督とその妻(護身術に凝っているというのが大きな伏線になる。ぽん!)とか、実にいい。

 なんだかんだを乗り越えて、本番の日を迎えるが……メイクさん役の女優と監督役の男優が渋滞に巻き込まれて現場に到着しない。しかし生放送。代役を立てるしかない。

 ということで、監督自ら監督役をやり、奥さんがメイクさんの役をやることに。

 ここからが、怒濤の展開。生放送だから、止められない。三谷さんの「ショウ・マスト・ゴー・オン」だ。とにかく続けなければならない。

 冒頭の37分の長回しを、舞台裏から描く。これは「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」だ。マーティたちがいろんな困難を乗り越えてデロリアンに乗るまでを正反対の側から描く、あの手法。

 これを成功させるには、綿密な構成と正確な演出・編集が絶対に必要。ツジツマが合うことが絶対に必要なのだ。

 そして、それに見事に成功している!素晴らしい!

 冒頭37分の長回しの中で、「ナンダコリャ」と思えるヘボい部分が何ヵ所もあったが、それはすべて伏線だった!長回し故、次の準備ができていない場つなぎで、やむなく無意味な会話を続けたり、同じ動作を繰り返して、焦らしてるのかと思ったらそうではなかったり、意味ありげな者が映り込んだり……その裏側というか、ネタばらしが最高におかしくて涙が出た。

 途中で設定が狂ってしまったけど、「あれ」をやれば何ページの何行目に戻れるとか、サスペンスもあるし、もう、映画的ワクワクに満ちている。

 何と言っても、すべての失敗や失策、アレアレと思った部分はすべて伏線であって、それは完璧に鮮やかに回収されるのだ!

 37分の長回しは、カメラの視点が何なのか、凄く気になったし、カメラがズームしたりパンしたりするのはカメラに意志があるわけで、これは誰の視点だ!ここが曖昧だとド素人が作ったヘタクソな失敗作だぞ!と思っていたら……完全な手練手管の中で、本当に見事に回収される。

 舌を巻きましたね。

 こんな完璧な映画、そうそうない。

 そしてこれは、映画そのものだ。

 映画でしかやれないよ!

 上田監督は、映画というものを熟知している。それはもう超ベテラン級だ。これが長編第1作というのが信じられない。

 「三谷幸喜を真似て三谷幸喜を越えた」という映画評もあるようだけど、一見、形は似てるけど、やっぱりまるで違う。

 先行作品にインスパイアされて、手法を真似ることはよくある。

 市川崑の名作「炎上」では、1ショットの中で現実から過去の回想になってしまう(言葉で巧く表現出来ない)ウルトラ・テクニックを使っているのだが、これはスクリーン・プロセスを応用したものだと市川さん本人に聞いた。

「アメリカ映画に『セールスマンの死』というのがあって、その中でスクプロを上手に使うてたんや。巧い手法を真似ることはまったく何の問題もない」

 と、市川さんは言った。

 その通りだと思う。

 一部で面白がって盗作とか言うヒトもいるが、この場合は、まったく無意味だ。

 題材は似ているが、手法はまるで違う。ましてや、舞台と映画では、表現方法や演出はまったく違うだろう、同じにやれるはずがないのだ。物理的に。

 裏側を描くという意味では、むしろ「アメリカの夜」の要素の方が強い。

 というか……。

 映画の現場を知れば、こういうドタバタは毎日のようにあって、巧くいったときの爽快感は何物にも代えがたい。だから「映画は三日やったら辞められない」と言われるのだ。キツいけど。

 その現場を知っているので、37分超長回し生放送を支えるスタッフの大奮闘に大笑いして……感動で涙が滲む。

 思えば、大混乱する現場を見事に収拾する超人的マネージャーの奮闘も描く(メインは中年のラブロマンスだけど)ビリー・ワイルダーの「お熱い夜をあなたに」という作品もあった。

 そういう過去の映画の記憶を散りばめて、上田監督は、奇跡的な成功を収めた。

 作品の完成度はもちろん、超低予算で作った作品が、都内2館での公開が、話題が話題を呼んで全国100館を越える拡大公開になったという、日本ではあり得ないんじゃないかと思っていたブロックバスター的というかシンデレラ・ストーリー的と言うかの興行的大成功。

 スタッフ・キャストが全員(ほぼ)無名でも、有名無名は関係ない。才能があるかないかだけだ。

 あたしゃ、「魔法の言葉」に酔い痴れましたね。

 ぽん!

2018年4月 8日 (日曜日)

映画「ペンタゴン・ペーパーズ」の感想

脚本:リズ・ハンナ、ジョシュ・シンガー

監督:スティーブン・スピルバーグ

上野TOHOシネマズにて

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 快作!

 世界中のマスコミ関係者に見て貰いたい!特に日本の新聞関係諸氏に。

 なんでもでもアメリカ万歳という気はさらさらない。ベトナム戦争絡みのあれこれはアメリカ国民への激しい欺瞞であったし、多大な犠牲も出しているのだ。それはアメリカ人だけではなく、当然ながらベトナム人も。

 それに、ワシントン・ポストが完全無欠の絶対正義に立脚したスーパー新聞だという気はさらさらない。アメリカの国益に反することには敢然と立ち向かって、沖縄の基地問題でアメリカに対立姿勢を見せた鳩山首相をルーピーと呼んだのもワシントン・ポストだから。

 それはそうだが、この映画は素晴らしかった。

 重大な事実の隠蔽、重大な書類のリーク。報道の自由。

 これらは今のアメリカ、そして日本かと思うほど今のテーマだ。

 最後はもう涙ぐんで、見た。

 「アメリカは負けない」という不敗神話を日本人は笑えない。アメリカの前に「神国日本は絶対に負けない」と豪語していたんだから。

 冷戦下において、アメリカは負けることを許されなかった。と、歴代アメリカ大統領は信じて来た。国民はアメリカが負けることなど断じて許さないだろうと。実際は、厭世観が強まり、ヒッピー文化やラブ&ピースのムーヴメントが広がっていたのに……。

 この映画が優れているのは、「不慮の事故(有力マスコミ人として政治にかかわりすぎた夫の自殺)」で社主になったキャサリン夫人が、お金持ちの主婦から超一流の「覚悟を持った」マスコミの巨人」に至る成長物語になっているところだろう。

 メリル・ストリープでなければ演じきれない細かなニュアンスを、見事に表現していて、素晴らしいのひと言。

 そして、トム・ハンクス。彼が言えばどんな事でも真実であり正義に聞こえてしまう怖さすらあるハマり具合で、「会社を潰すかも」という恐怖で逃げ腰になりそうな夫人に強力にハッパをかける。まあ、どっちが辛い立場かと言えば、株主や全社員への責任を持つ社主のほうだよねえ。

 赤狩りのマッカーシーを追い落としたCBSの伝説のキャスター、エド・マローも、CBS社主が防波堤になれずに崩れていく(政府やスポンサーからの圧力に屈した)中で奮戦して、やがてCBSを辞めるのだが……、CBSのペイリー社主も、あの時は大変だったと思う。

 調べてみると、ワシントン・ポストは首都のローカル新聞ではあったがリベラル寄りの「高級紙」だったので、報道の自由を主張して邁進する素地は大いにあった。

 それにしても、70年代初頭は今とは比べものにならない「男社会」で、女の社主というだけで、どれほど風当たりがきつい……それ以前に、相手にして貰えなかった、マトモに扱われなかったか、と思う。

 それを考えると、「報道の自由を守る新聞社の戦い」と同時に「女性社主の成長物語」を描いたのは大正解だった。

 そして……もっとサスペンスを盛り上げる手は山ほどあった。輪転機を回す絶対的〆切に原稿が間に合うかどうか。これは軽く描かれたが……。

 重要な情報を知った主要登場人物が謎の殺し屋に狙われて夜の街を逃げる、とか、安っぽくサスペンスを盛り上げるあの手この手はたくさんあったし、スピルバーグなら、そのすべてを熟知していただろう。エピソードだけではない。もっとアップの切り返しを多用して音楽もおどろおどろしく盛り上げる、とか。

 しかし、この作品ではそういう事を一切やらなかった。

 スピルバーグがオトナになって、大人の落ち着いた演出をするようになった、と言うよりも、この題材ならば、静かにリアルにきちんと描く方が「題材の真実」に迫れると思ったのだろう。そしてその判断は極めて正しかった。

 余計な作為が入っていない、この作品の演出には本当に好感が持てる。

 そして……この時期にこそ、この作品を作って公開しなければならないと感じたスピルバーグの時代感覚に敬意を表する。どんな立派な論文や評論よりも、この映画の方がずっと雄弁だ。エライ先生の文章よりも、この映画を観た方が心を動かされて「報道の自由」は絶対に守らなければならない!と改めて思った。

 今、政権や権力者に忖度して擦り寄って代弁ばかりしている「名ばかりジャーナリスト」「肩書きだけ報道陣」は恥ずかしくないのか!と声を大にして言いたい。

 キャサリンも、かつては政界の大者と仲よくして「お友達のことは悪く書かないでほしい」と思っていたのだが……究極の選択を突きつけられて、彼女は、正しいが困難な方を選んだ。

 人間、そうありたいものである。

 微力ながら、残された時間を、そうあるよう、努力したいと思う。

2018年2月23日 (金曜日)

「キングスマン:ゴールデン・サークル」

脚本:ジェーン・ゴールドマン、マシュー・ヴォーン 監督:マシュー・ヴォーン

シネマ・サンシャイン池袋6にて

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 この映画について、あーだこーだ書いても仕方がないというか、面白さは伝わらない気がする。

 一番いいたいのは、「やっぱりハリー(コリン・ファース)は生きていた!」ってこと。

 このシリーズは、コリン・ファースが絶対に不可欠。普段はこんなメチャクチャなアクションと無縁の、基本的にシリアスな演技派がこういう事をやって、しかも、アクションがキマッてるところが凄いのだ!

 

 前作の延長戦では作る意味がないということで、のっけに「キングスマン」本部を始めすべての施設やメンバーが消されてしまう。その犯人は、「麻薬や覚醒剤を合法化しろ!」と主張する密売組織。今やジュリアン・ムーアは「アメリカのお母さん」的な女優さんなんだねえ。で、彼女の主張「麻薬や覚醒剤を合法化して課税すれば取り締まりコストがゼロになるし税収も増えるしいいことずくめじゃないか!」には、うっかり賛同しそうになってしまった。その意味では、実に巧妙な脚本!

 スウェーデンの王女も使ってるしエルトン・ジョンも使ってるしアメリカ大統領の補佐官も使ってるし……と、ええのんかい的展開。そして大統領の「この際、麻薬や覚醒剤の常用者はみんな集めて死ぬに任せてしまえば一挙両得だ!」という方針にもうっかり賛同しそうになってしまった。う~む。アブナイ脚本だなあ。

 しかし、エルトン・ジョンの使い方は、特別出演ではなくて、もう、コケにするわリスペクトするわ主人公を助けるわ、大車輪の活躍をするのには驚いた。

 英国の独立秘密諜報機関「キングスマン」に対して、アメリカにも独立秘密情報機関はあった。その名も「ステイツマン」。その存在を「キングスマン」が知らなかったのは、「秘密の組織」だから。しかし今まで協同して作戦を実行することはなかったのか?007の世界ではMI6とCIAはツルんでるけど……。

 しかし今は「ステイツマン」は頼りになる存在。しかしその描き方がもう、フジヤマゲイシャハラキリスシスモウカラテの「偏見」という言葉が生ぬるいほどの低レベルなステレオタイプなのが抱腹絶倒。

 バーボン大好きのカウボーイ!

 まあ、キングスマンの格好をした英国人はほとんどいないそうだから(アメリカ中西部に行ったら、こんな格好をしたオッサンがバーでバーボンを煽ってるような気がして堪らないんだけど)、「おあいこ」か。自国を容赦なく笑って、同時にアメリカも笑う。

 続篇が出来るとしたら、この「コテコテ偏見」がどこまで広がるか……フランス人やドイツ人、イタリア人やスペイン人、ロシア人が出てきたらどう描かれてしまうのか。日本人の場合はもう想像がついてしまうけど。

 それはともかく、なんだかんだ言っても「英国とアメリカの特別な関係」をひしひしと感じる。似ているようで違うけど、やっぱり根本では価値感が共有できる関係。あ、続篇はオーストラリアが絡んでくるかも?

 悪趣味ぶりは健在だし、ワンカットで描く「モーレツアクション」も健在。いろんなテクニックが惜しげも無く注ぎ込まれたワンカットのアクションだけど、しかし……どうやって撮ってるんだろう?

 作品的まとまりとコンセプトのハッキリ具合で、第1作方が完成度は高いと思うけど、ハリーの帰還とエグジーの成長(スウェーデンの王子になったのか?)を祝したい!

2017年12月31日 (日曜日)

オリエント急行殺人事件(2017年版)

脚本:マイケル・グリーン 監督:ケネス・ブラナー

TOHOシネマズ上野にて

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 1974年の作品があるのに新作を作るのだから、これくらいの変化がなければ意味はないんだろうなあ。というのが最初の感想。

 なんせ、1974年版の超豪華キャストで奏でられる優雅な祝祭ムードを愛しているから。

 しかし……。

 ケネス・ブラナーは、2017年に新たに作る意味を追い求めたのだと思う。あの原作に、戦争の影を投影することも可能だったし、もっと他にも現代に通じるリアルなテーマを盛り込めた。熟慮した結果、ケネス・ブラナーは、ある事象だけをリンクして描くのではなくて、現代を覆う狂暴で凶悪で正しくないもの、を荒っぽい手法で描き出したのではないか。

 そう思うに至った。

 だから、今回のポワロはかなり元気に動き回って、ドンパチはあるわ格闘はあるわのアクティブぶりを発揮する。

 今までのポワロのイメージは、「あたかも引退したような感じの、自分が興味を持つ事件だけを引き受ける老人」というものだったが、今回のポワロは「世界一の探偵であるという自負を持ったバリバリ現役のイケてる探偵」だ。

 だから、カメラが動きすぎるくらいに動く。車内をえんえん移動するし、大クレーンで巨大な鉄橋(木造?)の下からぶわ~っとあがってくるし。もっとどっしりと撮ればいいのに、と思うけど、今回のポワロを考えると、こういうカメラワークは正解なのだろう。

 そう言えば走っているところも荒涼とした大地や急峻な山を縫ってるし、徹底して現実の厳しさを訴えてる。

 このデジタルの時代に、65ミリネガで撮影された映像は鮮明でとても美しいが、美しいものを映し出してはいない。たぶんそれが今回のテーマなんだと思う。

 ついつい優雅な1974年版と比較してあれこれ言いたくなってしまうが、上記のように考えれば、これはこれでよくやった!という感じがする。「デイジー・アームストロング事件」はこの世における凶悪なモノの象徴であって、復讐を遂げる彼らは、正しい意味で正義なのだ。司法が万全でない以上、どこかで正義は働かねばならない。今の世の中、そんな事が多すぎる。

 上流階級の別世界の浮世離れした復讐劇ではなくて、これは今の時代にも通じる怒りなんだぞ、とケネス・ブラナーは怒鳴っている感じがした。トンネルでの大団円での彼の芝居は、まさにそれだ。

 見た直後は、ちょっと拒絶反応が出てしまったが、こうして考えていくと、いろんなハンデ(優雅な超大作である前作がある、前作のような超豪華キャストではない、などなど)を抱えた上で、大健闘して、ヒリヒリするものを作り上げた、ケネス・ブラナーは凄いのではないか。そう思えてきた。

 でも……おれは1974年版を愛するけど……。

2017年2月27日 (月曜日)

ラ・ラ・ランド

脚本・監督:デミアン・チャゼル

TOHO CINEMAS錦糸町にて

 お帰り、シネミュージカル!

 久々に、映画のための、舞台の映画化ではない、正攻法の「シネ・ミュージカル」が帰ってきた!

 空間を自由自在に使って、映画のマジックも駆使した、映画ならではの、映画でしか出来ないミュージカル!

 シネ・ミュージカルは、オハナシは単純でいい。その代わりに、スターの踊りを見せ、歌を聴かせる。それも、圧倒的な踊りと歌を!

 しかし、それはまあ、「ウェストサイド物語」で変わってしまった。たわいのないオハナシのミュージカルは廃れて、オハナシが重んじられる作品が主流になり……まあこれはほとんど舞台の映画化なんだけど。

 映画のためのシネミュージカルは、近年、ほぼなくなってしまった。「プロデューサーズ」は元々は映画だけど、舞台化されて大ヒットしたので再映画化された……。

 で。

 この作品は、のっけの「大渋滞したハイウェイ」で大ミュージカルナンバーが展開されて、観客の度肝を抜く。

 うわ、凄い!セットではなく、ロケ。しかも、ほとんどワンカットの超長回し。カメラは寄ったり引いたりステディカムを駆使して縦横無尽に動き回る。

 これ、本物の道路を封鎖しての撮影。

 現場のことを思うと気が遠くなる。

 カットを割らないワンカット長回し。それだけでも大変なのに、タイミングを間違えるとNGになるダンスナンバー。それも群舞!

 シネミュージカルに必須の大ハッタリは、大成功!

 あたしゃ、この場面で、嬉し涙を流してしまった。

 こりゃスゲエや!

 アメリカ人が熱狂するのもよく判る……。

 オハナシは、「やりたい音楽」が出来ずに燻っているジャズ・ピアニストと、オーディションに落ちまくっている女優。その夢を実現する葛藤と、二人の恋。

 いいの。ミュージカルはこれくらいシンプルな話しの方がイイの。なんせ歌と踊りを見るものなんだから。

 だから……もっとタップダンスを見たかった!

 ロサンゼルスの街を見下ろす丘で、そろそろこれは……と思ったところで、ジャストなタイミングで二人がタップを踏み出した、その瞬間にはあまりの歓びに狂喜乱舞しそうになった。

 だけど……。

 すぐ終わってしまった。

 もっとね、有無を言わせぬ圧倒的な踊りが見たかった。

 アステアの優雅な踊りでもいいし、ジーン・ケリーのエネルギッシュでアクロバティックなものでもいい、とにかく、呆然とするようなタップやダンスを、これでもかと見たいんだ!

 ライアン・ゴスリングやエマ・ストーンは俳優であってミュージカルの人じゃないから、そういう事を求めるのは間違っているのかもしれないが……ジーン・ケリーやアステアの映画では、「もっと踊りたい!もっと見て貰いたい!」という気持ちがガンガン伝わってきたので……。

 いや、ダンスの場面はたくさんあった。天文台でプラネタリウムを絡めた幻想的な場面は美しいし、クライマックスの「もう一つの人生」を描く長いナンバーも素晴らしかった。

 けど……。

 「バンドワゴン」のセントラルパークでのアステアとチャリシーのダンス、「雨に唄えば」のあの圧倒的な「ブロードウェイ・バレー」と「巴里のアメリカ人」のロートレックなどの絵画を模したダンスナンバーは、連想できた。だけどこれは オマージュと言うより、チャゼルは完全に消化していて、「引用」でもないし「模倣」でもない、オリジナルなモノにしていたが……。

 とにかく、もっとタップダンスが見たかった!

 もっとね、タップダンスのシーンとかダンス・シーンが圧倒的であって欲しかった。湯水の如くダンス場面が現れて、果てることなくタップを踏んで欲しかった。

 踊りを見たいので、ワンテイク撮りに拘ってカメラを振り回していたのが、ひどくうるさいし。

 踊りの場面でカットを割らないのは正解だが、あんなにカメラが動き回ったら、それはダンスの邪魔になってないか?引き画でどん!と撮って欲しいんだよなあ。

 見終わった後口ずさめるメロディもない。

 ラストは、「シェルブールの雨傘」的な、アンハッピーエンドだし……。

 と、見終わった後は不満ばかりが思い浮かんでしまった。

 それだけ、期待していたんだと思う。

 21世紀の今、ミュージカルを作ると、ノーテンキなハッピーなお花畑みたいな映画は作れないだろうなあ、と思う。そんな夢一杯、みたいな映画は完全なウソだし、夢をばら撒くのがエンターテインメントだと言っても、ウソの度が過ぎたらシラケてしまうから……だから、こういう風にするしかなかったんだし、こうでなければいけなかったんだろう。

 でも……。とは言え。

 映画を見終わって外に出て目に入ってきた「夜の錦糸公園」が、いつもとは違うものに見えたのよね。

 なんだか、希望が詰まった夢の空間みたいに。

 主人公の二人がどこかにいるような。

 これは、「絵に描いたような(現実にはあり得ない)ハッピーエンド」にしなかったからか、と思った。

 主人公ミアは、カネはあるけどつまらない男と結婚して女優としても成功している。えーっ!どうしてピアノストの彼じゃないの!

 ミア夫婦はあるジャズクラブに行くと、そこは元カレ・セバスチャンが経営する店だった。思わぬ形で再会した二人は、「もしもの世界」を夢見る。

 それが……とても素晴らしい。圧倒的に素晴らしい!

 ジーン・ケリーとシド・チャリシーが舞った「ブロードウェイ・バレー」と「巴里のアメリカ人」のクライマックス・ナンバーのように、セットを駆使した力の入った場面が展開して……現実に戻る。

 

 これがあるから、なんだか心に残って、翌日、しみじみと感動して、映画を思い出すと泣いてしまうんだろうなあ。

 ひたすらに、この映画が懐かしい。この映画が、妙に恋しい。

 これはもう、もう一度見るしかないか?

 もう一度見たら、挿入歌に親しんで鼻歌で歌い出すかもしれないし。

 よし、近いうちに、もう一度見に行こう!

 しかし、タイトルの「ラ・ラ・ランド(La La Land)」って、どういう意味が込められてるんだろう?

2016年12月18日 (日曜日)

この世界の片隅に

脚本・監督:片渕須直

渋谷ユーロスペースにて

 ほとんど予備知識を入れず、原作も読まずに、かなり白紙の状態で見た。とは言え、被爆を扱っている事は知っていたので、なんとなく「はだしのゲン」を連想していた。まったく無垢な人たちが原爆という不条理な攻撃に遭って、かなり強い抗議と反戦の意志を、優しい絵で描くような……。

 しかし……。その予想は完全に外れた。

 主人公すずさんの平凡だけど穏やかな暮らしを、ディティール豊かに日々、丁寧に描いていくのだ。

 戦前の広島。今のように豊かではないが貧困ではなく、それなりにアメリカ文化が入ってきて、楽しい日々。

 瀬戸内の穏やかで美しい自然に囲まれて、主人公のすずも穏やかに慎ましい日々を送って「たおやか」に暮らしている。絵が上手で、絵を書くのが好き。19になってもまだ幼い少女のようなすずさん。

 そんな彼女に突然、縁談が舞い込み、呉に嫁ぐ。

 小姑(攻撃的だけど、嫌なだけの悪役ではない)との関係に悩みつつも、畑から見下ろせる呉の軍港に浮かぶ戦艦の雄姿に素朴に感動したりする。

 そんな日々を、穏やかなユーモアを交えて温かく描いていく。

 よく、戦前の暮らしは憲兵や特高警察が目を光らせていて、すぐ捕まって拷問される言論統制と恐怖政治の日々、のように思われたりするが、小林信彦の名著「ぼくたちの好きな戦争」が活写したように、戦前の東京は今よりアメリカ文化に対する憧憬が強くて、多摩川の土手でカーレースが行われたりして、結構豊かで楽しさもたくさんあった。笑いだってエノケンやロッパをはじめとしたモダンな笑いもあった。

 それは、中国戦線が膠着状態になっても、アメリカとの戦争が始まっても、しばらくの間は保たれた。しかし……。戦況が悪化するにつれてすべての物資が不足して、耐乏生活が始まる……。

 日々を懸命に、しかし、楽しく心豊かに生きているすずさんの頭上にも爆弾が降ってくるようになってしまう。

 頭上をアメリカの爆撃機が飛び、高射砲が撃ち落とそうとする。敵機の破片が降ってきて、それで命を落とす人も多かった。

 

 これまで、穏やかな日常を丁寧に描いてきたから、すずさんの生活と観客の気持ちが同化したときに訪れる、戦争の恐怖。

 空襲が始まるときに、庭先に降り立った白くて大きな鷺。「ここに居ては危ないよ」と庭から追い立てるすずさん。その鷺はゆっくりと広島の方に飛んでいく……。

 すずさんは空襲に遭い、義父さんに助けられたが……義父さんは倒れたままで……。

 実は夜勤明けで眠くて仕方がなかったんだというオチがつく。

 この緩急自在の、ユーモアが自然に同居するタッチが素晴らしい。

 普通の生活には笑いがつきものだもの。

 すずさんが呉港をスケッチしていたら憲兵に捕まって家宅捜索される場面も、すずさんにキツい小姑や義母が怒りで(憲兵に疑われるという恥辱をもたらしたすずさんに)身を震わせている、のかと思ったら、のんびり屋のすずさんに「間諜活動なんか出来っこない」から、大真面目な憲兵の言葉に笑いを堪えていた。

 こういう場面の数々があるから、そのあとの、呉大空襲や、広島の原爆投下の描写が胸に響く。

 絵を描く右手は、姪の晴美と共に吹き飛ばされてしまう。

 原爆の直接の被害は免れたけど、実家の両親は死に、妹も体調が悪そうで……。

 一番心に刺さったのは、ラスト近くで視点がすずさんから離れて、ガラスが身体中に刺さったまま原爆投下後の広島の街を徘徊う母子の姿の場面。

 母はすずさんと同じように右手がない。疲れ切って座り込んだまま、母は死んでしまった。ウジが湧くその死骸に縋り付いたままの小さな女の子。

 広島を訪れていたすずさん夫婦が落とした海苔巻を拾う、その子。落としたよと差し出すと、「食べてええよ」と言われて食べると、まるで捨てられた子猫のようにすずさんに身をすり寄せる、その子。

 この場面は、抑えたタッチで描かれるからこそ、悲しい。悲しくて仕方がない。

 号泣はしない。

 しかし、じわじわきて、止めどなく涙が湧いてきて、客席から立てなくて、困った。

 とにかく、じわじわと万感胸に迫って、堪らない。

 しみじみと泣く、というのでもない。なんだろうね、この感情は。

 素朴に感じたのは、「生きていることの幸せ」「生かされている事への感謝」という気持ち。それを思うと、一切のワガママとかこだわりとか、モロモロなものが消えていく。浄化されたような、まあ、魂の浄化って、そんなに簡単なものではないと判っているけど、ほんの少しだけ、そんな気持ちになれた。

 プログラムを開くと、「生きるっていうことだけで涙がぽろぽろ溢れてくる、素敵な作品です」とすずの声を担当したのん(能年玲奈)の言葉が載っていた。

 彼女あってこそ、すずさんには命が吹き込まれて、「のんびりほんわかしているけど、あんまりひどいことになったら我慢しない」という生きた人間になった。そして、こういう人が戦争に巻き込まれてひどい目に遭う不条理を、心の底から憎みたくなる。

 プログラムによると、のんは、実に的確に役を把握していたそうだ。これは天性のものだろう。

 

 思えば……今、シリアでは、この映画で描かれたことと同じ状況で、シリアのすずさんが毎日犠牲になっている。それを思うと……。

 この作品は、過去の、昭和8年から21年の「過去」を描いたものではない。今も同じ事が世界のどこかで起きている……。

 タイムマシンを使って当時の写真を撮ってきたかのような綿密な再現をした、徹底した取材をした片渕監督とスタッフには、執念を感じる。この作品はきちんと作らなければならないと思ったからには徹底する。

 凄いことだと思う。

 小説と違って映画やアニメは、すべてに対して具体的な描写が必要になる。家も道路も衣服も食べ物も……。そのすべてをコツコツと調べ上げた努力と根性に敬服するし、その綿密な調査取材から生まれた描写が、物語を推進している。リアルな描写が物語を生み、深い意味を感じさせる。

 

 丁寧に描いているだけかと思えば、シネカリグラフのような技法も使ってすずさんの状況の激変を端的に表したり、多彩な表現を使いきっている。

 粘りに粘った甲斐のある、しかし監督の執念を画面には一切見せない、優しさと愛情溢れるタッチ。だからこそ、この作品は、しみじみとした感動を呼び、心に残り、思い出すと涙が溢れてくるのだ。

 声高にテーマを叫ぶより、こんな形で静かで優しいタッチでしみじみと語られる方が、効く。観客は、すずさんと一緒に戦前の平和な昭和を生き、戦争の影が徐々に濃くなる不安を覚え、空襲の恐怖を共有し、原爆に衝撃を受け、戦災孤児を保護する。

 この作品だからこそ、「一緒に生きて体験できた」という気がする。これはバーチャル以上のバーチャルではないか。魂がスクリーンの向こうに飛んでいったのだから。

2016年8月 3日 (水曜日)

「シン・ゴジラ」(ネタバレ注意)*追記アリ

総監督・脚本・編集:庵野秀明

監督・特技監督:樋口真嗣

准監督・特技総括・B班監督:尾上克郎

109シネマ・グランベリーモールにてIMAX上映

 この巨大な作品の感想を、どこから書けばいいのだろう?

 第1作の「ゴジラ」、「モスラ」、「ラドン」以外の、怪獣が2匹(2頭?)以上出て来る怪獣映画はプロレスみたいなもの(「キングコング対ゴジラ」と平成ガメラは除く)で、特に平成ゴジラの「VSゴジラ」ものはヒドかった。しかし、大映が低予算で「平成ガメラ」シリーズを作り、ビックリした。センスがあって怪獣映画が判っている人が作れば、まだまだイケるぞ!と思った。金子修介監督は東宝ゴジラも手掛けて善戦はしたが、どうしても旧弊な勢力に負けたのか、まるで古典歌舞伎みたいに「ゴジラはこういうもの」という意味不明なお約束を押しつけられたぶん、詰まらなかった。他の作品はもう……監督を知っているので言いにくいが……まるでダメだ。珍妙な新兵器が突然登場したり、映画としても出来が悪い。これは監督だけのせいではない。くだらない脚本しか書けなかった脚本家の責任でもある。それと、怪獣オタクへの遠慮なのか何なのか、着ぐるみに拘る旧弊さ。「東宝のゴジラは着ぐるみでなければならない」と誰かが言ったか書いたかしていたと思うが、なんじゃそりゃ、だ。円谷英二が生きていたら、いつまでも古い技術を有り難がって使い続けてはいなかっただろう。

 で。

 本作は、そういう「東宝の旧弊なあれこれ」をすっぱり切り落として、フリーハンドを得たのかどうか定かではないが、庵野秀明がかなり自由に、自分の世界を構築した。

 そして、それは、極めて素晴らしく、見事であり、物凄い。

 怪獣映画でも、映画だ。まず映画として優れていなければお話にならない。しかし一部の怪獣バカは、怪獣が出てくればいいという幼児退行みたいなことを真顔で言う。こういうバカに関るから東宝怪獣映画は駄目になり続けたのだ。

 映画として駄目なものは、怪獣映画としても駄目。至極当然のことだ。

 そして。本作は、「日本に突如巨大不明静物が出現したらどうなるか」という命題をリアルに、考えられる限りリアルにシミュレートした。

 国内政治・国際政治・軍事、すべての知識を動員して、リアルな、ヒリヒリした世界が展開される。ここには、ゴジラが愛嬌を振りまく余地はまったくない。

 最初は楽観論に縋ろうとする政府高官(閣僚や官僚たち)。しかし、一人だけ現実を直視するリアリストが、政務担当内閣官房副長官の矢口(長谷川博巳)。総理補佐官の赤坂(竹野内豊)と組んで、駄目な政治家をなんとか操縦しながら難局に当たろうとする。

 この駄目政治家と駄目官僚の会議が「あるある」で、情けないけど笑える。官僚の果てしない「法律論議」(これは必要ではあるんだけどさ)に、駄目な御用学者のこんにゃく問答。

「楽観論に縋って現実を見なかった戦前の軍部と同じ轍を踏んではいけません!」

 と矢口は吠えるが、最初は独り相撲。しかし、彼の言うことが正しいとハッキリしてくる。

 巨大不明生物は、最初登場した時じゃ妙にキモカワイい顔で、「おいおいこれがゴジラかよ」と思ったら……どんどん変容していく。

 そして……ついに立ち上がって、あの咆哮!そして、あの「音楽」が!

 コントラバスの音をゆっくり再生したゴジラの咆哮と、伊福部昭の「ゴジラのテーマ」「自衛隊のテーマ」は、日本人のDNAに組み込まれている。これがないと、どうしても画竜点睛を欠くというか……締まらない。

 そういうところを、庵野さん、熟知している。ここだ、と言うタイミングで鳴り響く、不滅の伊福部サウンド!

 あたしゃ、泣いたね。泣きましたね。リアルな自衛隊がリアルに出動して果敢に攻撃するミリタリーなところとか、ツボにどんどんハマって、もう、感涙に噎んだ。

 平成ガメラは民間人が主人公だったけど、今回は政府の中枢にいる人物が主人公だから、政治や安全保障や軍事に関するワクワクするようなビッグワーズがポンポン飛び交う。

 そして遂に、アメリカから大統領特使が!

 これが石原さとみなのが少々「?」。ハーフかクオーターなんだから、石原さとみじゃないんじゃないの?ローラとかベッキーじゃアレだろうけど。

 しかし、石原さとみは、国際政治というかアメリカの冷徹な方針を伝える。とにかくゴジラは日本で駆除する、と。そのためには核兵器も使用すると。

 リアルな描写は、ゴジラに襲われる鎌倉・横浜・東京の街についても徹底している。

 ふっ飛ぶ京浜急行!

 逃げ遅れる婆さん。

 逃げ惑う群衆。

 避難するための無限のバスの列。

 どこかにやっと避難した避難民……。

 もうね、このへんは、あまりにリアルすぎて、見た直後はそうでもなかったが、時間が経つと、恐ろしくて哀しくて不安で……もう、本当に、怖い。

 本作のゴジラは空撮や仰角のショットを多用して、ゴジラの巨大さを的確に映し出しているし、逃げる人たちの頭上をゴジラの尻尾が通過するという「恐怖のショット」(これって「続・三丁目の夕日」に出てきた恐怖のショットに似てないか?いや、似ていてもいいんだけど)は、本当に迫力がある。

 ゴジラ自体も本当に怖いが、ゴジラがもたらす災害の描写が、311の大災害を想起させて、心から恐ろしい。しかも……ゴジラは放射能をまき散らしている。第1作からゴジラは放射能を撒くことになっているのに、これについてきっちり描写したのは今作が初めてではないだろうか?

 思えば、第1作では、戦争(都市への空襲)の恐怖が残っていて、「また疎開か?」という生々しいセリフがあった。

 その意味で、第1作の心をきちんと継承したのは、本作だろう。広島・長崎、そして第五福竜丸事件と、核への恐怖が生々しかった時代に作られた第1作と思いを一にした作品がやっと現れたのだ。これは、不幸なことなのだけれど……。

 首相はやっと、ゴジラに対する全面攻撃を決意するが、立川に避難しようとしたヘリがゴジラによって落とされて、主要閣僚は全員死亡。残された若手が仕切るしかなくなる。終戦直後の日本政府を彷彿とさせる展開。首相臨時代理に推されたのは、唯一生き残った「年痕序列中継ぎ穴埋め」の農水大臣(平泉成)。アメリカに押されまくって、多国籍軍がゴジラを攻撃するために日本に攻め込むことを承知せざるを得なくなる。

 多国籍軍にいいようにされてメチャクチャにされたイラクやアフガン、シリアの人たちの不条理な気持ちが少しだけ判った。シミュレーションとはいえ、多国籍軍に好き勝手される情けなさ!

 しかしここは多国籍軍を受け入れた方が、「その後」の援助も受けやすい、と国際通の赤坂の冷徹な判断。しかし、そうは言っても……。

 各省庁のはみ出し者が集められた「対策チーム」の面々が、いい。津田寛治や高橋一生、市川実日子に松尾諭とか、いい役者を集めている。彼らの不眠不休の献身的働きによって、徐々に「対ゴジラ新兵器」が出来上がっていく……。

 それは、「空飛ぶ鏡餅」みたいな珍奇な秘密兵器ではない、地に足の付いた、きちんとした新兵器。ゴジラの生態を研究した結果の唯一の方策。しかしそれは完成はしたが、必要分の製造が追いつかない。

 ゴジラへの核攻撃まであと1日。ダメ総理だと思われていた元農水相は、実は、誠実でオノレを棄てられる人物だった。(平泉さん、儲け役!)

 国際政治バランスを巧妙に利用して、フランスを抱き込む外交戦。

 そして……。

 新幹線や「E電」たちの特攻(これは……無人とはいえテッチャンとしては胸が痛む)のあと、福島第一原発の緊急非常冷却のあの光景を思い出す、ゴジラの口に向かっての一斉噴射!

 この作戦が終わるまで駐日フランス大使に頭を下げ続けた首相臨時代理(元農水相)の姿を思い出すと、フィクションなんだけど、号泣してしまう。

 こういう「ボンクラに見えていたけど危機に陥ると我を棄てる立派な政治家」と「はみ出し者ゆえに有能な官僚や研究者」、そして、「死を恐れない自衛隊員たち」によって、日本は何とか救われた……。

 つい最近経験したようなことで、それが頭の中でフィードバックして、激しい感動を呼び起こす。

 政治家や官僚のやり取り、自衛官たちのやり取りや行動のリアルさ。

 映像のリアルさ。臨場感が半端ない。

 特撮的にも、ドラマ的にも、アメリカ的な妙なヒロイズムを廃した、リアルな作品。

 こういうドラマに邪魔な、「家族の部分」がまったくなかったのが素晴らしい。日本映画でもアメリカ映画でも、「家族の代表」が出てきて映画の緊張感をぶった切ってしまったり妙に矮小化させてしまったりすることがあるのだが、今回はそれがないのが本当に素晴らしい。それに、石原さとみと主人公が恋に落ちたりとか、昔の恋人だったとかという面倒くさい要素もなかったし。

 これは、戦争映画なのだ。戦争映画に愛とか家庭とかは邪魔でしかないのだ。

 ミリオタによれば、自衛隊関係の描写はとても正確なのだそうだ。

 そういう正確さが壮大なウソを支える。

 この作品をきちんと理解するには、あと数回見なければならない。たぶん、見るたびに新しい発見があって小躍りするんだろう。

 この作品は、「ゴジラ第1作」以外のすべての怪獣映画とはクラスが違うくらい、はるかに凌駕した。もちろんアメリカ製のゴジラよりも比較にならないほど素晴らしい。

 ドラマ部分をきっちりと描き込んで嘘くさくならず、とても見応えがあった。役者の芝居にも熱が籠っていて、本当に「入魂の演技合戦」だった。

 こういうドラマは、民間人よりも、どうしたって、政府の中枢にいる人物が主人公になるべきだ。しかしきちんと描けずに嘘くさくなって映画全体が漫画みたいになってしまう場合もある。日本映画はこの辺が本当にヘタクソだったが……本作では、見事に描ききっている。

 演出部(だれが現場で監督していたのか不明なんだけど)の勝利だ。

 本当に素晴らしい。

 こんな凄い映画に巡り会えて、死ぬまでに見ることが出来て、心の底から幸せだ。

 まだまだ書き足りないが……。

 ネットでも大絶賛の嵐。貶そうと思えばいろいろあるだろうが、それよりも素晴らしいところの方が圧倒的に多いんだから。

 故岡本喜八監督が写真出演していた。ああ、岡本喜八!


(追記)

 「ゴジラ」第1作のゴジラは、恐怖の象徴だった。それは誰の目にも明らかだが、原水爆のメタファーだった。というかゴジラは放射能をまき散らす「放射能の権化」。この作品は作られた数年前には2発の原爆が日本に落ち、そして第五福竜丸事件があった。どうしたってゴジラは「核の脅威」そのものな存在なのだ。

 そして……今回の「シン・ゴジラ」。このゴジラが物凄く恐ろしいのは、第1作から64年。やっと、第1作の続篇というか、第1作を忠実に継承する作品が現れたからだ。

 2011年の東日本大震災と福島第一原発事故。福祉な第一原発から放出される放射能はまだまだ止まらないままに日本とその周辺を汚染し続けている。

 ゴジラ第1作と同じくらいの「核の脅威」を感じ、そのメタファーとしてのゴジラが、ハッキリと出現したから、今作のゴジラはたまらなく恐ろしいのだ。

 作品ではハッキリとは言っていないが、誰が見ても、福島第一原発事故の恐怖を想起させる。その基本構造とテーマ、メッセージは第1作と同じだ。

 逆に言えば、第1作からあとは、核の脅威は薄れ、第三次世界大戦の危機も遠ざかり、ゴジラが「核の恐怖」のメタファーである必然性がなくなってしまった。

 平和な時代には、ゴジラは他の怪獣とプロレスを演るしかなくなってしまったのだ。

 ゴジラを恐怖の象徴と思う時代が、幸せかどうか。

 ゴジラが詰まらない時代の方が、人間は幸せなのかもしれない……。

2016年6月28日 (火曜日)

「マネーモンスター」の感想(ネタバレあり)

原案:ジム・カウフアラン・ディ フィオール

脚本ジム・カウフジェイミー・リンデンアラン・ディ フィオール

監督:ジョディ・フォスター

TOHOシネマズ錦糸町にて

 ジョディ・フォスターの監督第4作。

 とても面白かった。以前けっこうあったけど最近少なくなっている、往年の筒井さんが得意にした「擬似イベント」もの。「狼たちの午後」とか「ネットワーク」とか、現実が少しずつ狂っていって……というパターンだが、今回はズバリ、「株式市場」がテーマ。

 まず、脚本が秀逸。マジに作れる題材をエンターテインメントに仕上げたのは凄い。プロデューサーにも加わっているジョージ・クルーニーが作ると、かなり硬派のマジな社会派(「グッドナイト&グッドラック」とか「シリアナ」とか)になるが、そうしなかったのは大正解。

 ジョージ・クルーニーが「アメリカの宮根」みたいにテキトーで調子がいいだけの司会者リー・ゲイツに扮して、投資を煽って「この株を買わないヤツはバカ!」みたいなことをやっているが……。

 アメリカでは、本当にこんな番組を放送してるんだろうか?あんまり現実から乖離したぶっ飛んだ番組を設定すると観客はシラケてしまうから、似たような番組はあるんだろうなあ。このへん、町山さんの解説を聞きたいけど。

 生放送中のスタジオに、司会者の言うことを信じて全財産を投資して見事にスッてしまった男カイルが、拳銃と「爆弾チョッキ」を持参して乱入し、リーを人質にとって放送の継続を要求し、番組とリーを糾弾しはじめる……。

 株で損するのは、これはもう自己責任と言うしかない。全財産を投資して一文無しになって……と言うのは大恐慌の時に起きた現象で、あの時も「空前の株ブーム」で、みんながこぞって借金までして株にカネを注ぎ込んで……大暴落。大変なことになった。戦争も起きた。

 今でも、株で大儲けした成功者の話が広まると、我も我もと投資して、大失敗というパターンは繰り返されている。

 投資の失敗については、同情は出来ない。ただ、株って、資本主義の象徴だよね、とは思っている。そして、株は上がったり下がったりするんだから、それも判らないヤツは投資、それも全財産を投資なんかするなよ、と思う。

 しかし、この映画では、「アイビス社の株価が暴落したのは、システムのバグがあったからだ、それはどうしようもない」とアイビス社のCEOが言い訳する。

 ここで1つ疑問があるが、株価って、株式市場が決めるでしょ?システムのバグって、株のトレードのシステム?ってことはニューヨーク株式市場のシステムって事?いや、映画ではアイビス社のシステムと言っていたけど……アイビス社が、自社株を売り買いして利益を出していたけど、その売り買いシステムにバグがあったという意味か?

 実際、近年の株価の暴落はコンピューターの自動トレードが悪影響を及ぼして、システムの設定の何かが作用して、ちょっとの株価下落が「一斉売り」のサインになってしまって大暴落が発生、と言うことが何度かあった。

 ああそうか。映画の冒頭で、「マネーモンスター」という番組の中で、アイビス社について簡単な説明をしてましたな。超高速トレードのシステムを開発したことで、他人より早く「勝機」を掴めたので成功を収めてきた、と。

 で、8億ドルの損失を出して、アイビス社に投資していた多くの顧客は大損したと。

 しかし「システムのバグ」って本当か?実はウラがあるんじゃないか?と真実を探っていくのが1つのスジ。

 それに、スタジオの中で「みんながアイビスの株を買えば株価は上がる!さあ、みんな買ってくれ!」と銃を突き付けられたリーが煽るが、逆に株価は下がってしまうとか、そういうくすぐりも交えていく。

 そして、雲隠れしていたCEOがウラでやっていた事実が判ってくる。

 バグを理由にしていたのはウソ(韓国人のプログラマー……なんか凄く怪しいぞ……が、「金額が1つの銘柄に集中しない設計になっているから、こんな事は起きえない。これは人為的だ」と証言)で、損失した8億ドルは別のことに投資されていて、その投資が失敗して「解けてしまった」のだと判ってくる。

 そして、リーが着用させられていた「爆弾チョッキ」の爆弾はニセモノだと判るが、この爆弾の起爆装置を警察のスナイパーが狙っていることも知る。つまり爆発させないためにリーは撃たれようとしている!

 その後の二転三転する皮肉が効いた展開が見事。

 リーは撃たれないように犯人カイルを盾にするし、爆弾がニセモノだと判っても、本物だと信じ込ませて、利用する。

 この辺で、お調子者の司会者リーも、「真相を暴きたい」ジャーナリストの本能に目覚めているし、ここまで見事に番組を引っ張り司会者の安全を確保してきたディレクター(ジュリア・ロバーツ)も、あらゆる手を駆使して「隠された事情」を暴いていく。

 この辺の過程を短く見せた手腕は見事だ。腕利きのハッカーがレイキャビク在住のアイスランド人というのも愉快。

 で、悪の権化のように描かれてきたアイビス社のCEOだが、彼は「まったく違法行為をしていない」。不適切だが違法ではない。どこかの元都知事が言ったようなことを言う。

 CEOはストライキ中の南アフリカの鉱山の株を安値で買って、ストを終わらせて株価が上昇したところで売って、大儲けしようとしたのだが、ストライキはいっこうに終わらず、損失が明るみに出てしまった、と。

 これは、資本主義経済のシステムとしては、CEOは別に間違ったことはしていないのだろう。ウソの説明をしたけど。

 しかし、犯人カイルは狙撃されて絶命。カイルの心情も判って友情すら芽生えかけていたので、リーは怒り狂う。

 このラストは苦いし、いろんな問題点も正面から突いている。

 監督のジョディ・フォスターは、「金融を描くのではなく、人間の弱点を描いたつもり」だとインタビューに答えたらしい。

 問題は重層的で、たぶん、正解はない。登場人物の細やかな感情も描き出し、ギャグもあり、サスペンスもあり、ちょっとだけカタルシスもあるが、苦い。この苦さが、いい。すべて解決してハッピー!なんてことはスペオペの世界にしかない。(苦い結末のスペオペも見てみたいけど)

 こういう作品は、尊敬するし、自分もモノにしてみたいものだ。

 現実を見据えて、問題点を炙り出しつつ、根はマジメだがエンターテインメント精神旺盛に、面白おかしく描いていく。

 これぞ、映画だと思うし、娯楽作品だと思う。

 お見事!

 この一言に尽きる。

2016年6月22日 (水曜日)

「10 クローバーフィールド・レーン」の感想(☆ネタバレバレ)

脚本:デイミアン・チャゼル/監督:ダン・トラクテンバーグ

錦糸町楽天地シネマにて

Viamain

 いや~~~~~頭のいい映画!

 よくぞ考えついたなあ!素晴らしい!

 恋人との別れを決めて、部屋を出る主人公。

 車に乗ってかなり遠くまで走っている。昼間に出たのに今はもうすっかり夜。

 カーラジオをつけると、電力供給が不安定になっているとか、なにやら気味の悪いニュースが……と思っていると、事故かなにかで車が横転!

 タイトル。

 気がつくと、主人公は地下室のような部屋で、点滴されて足を繋がれている。

 やがて現れる太った初老の男。

 男は「逃げても無駄だ。外では生きられない」と言う。

 この変態かもしれない男に監禁され続けるのか……と思ったら、別の若い男が。この男は「このシェルターを作った。外に居て逃げてきた」と言う。

 男は主人公を拉致監禁して自分のモノにしたい変態か?しかし、そんな風でもないように思える。

 初老の男が言う通り、外には得体の知れないモノがいて世界は死滅してしまったのか?このシェルターに入れてくれと逃げてきた女の存在。しかしこれだって、すべて「グル」かもしれないぞ。

 若い男は「逃げてきて助かった」と言ったが、それだってウソかもしれない。

 時折響く大きな音に、振動。ヘリコプターのような音。

 外で何が起こっているのか判らない……。

 と、全体の2/3くらいはシェルターの中でのみ話が展開する。

 出演しているのは、ジョン・グッドマンによく似た男(いや、本物のジョン・グッドマンなんだけど……最近のジョン・グッドマンは「いい人に見えて実は……」という役が多いなあ)に、タンクトップが魅力的で瞳が理知的にくるくる動く、美人ではないけど可愛いメアリー・エリザベス・ウィンステッドと、もう一人ジョン・ギャラガーJr.の3人と、シェルターに助けを求める顔が変形してしまった女。

 この四人!

 シェルターのセットはよく出来ているけれど、物凄いセットではない。

 いわば、密室劇。

 予想では、この密室劇は30分くらいで切り上げて、シェルターから出た3人が、未知の生物から逃れる展開になる!と確信していたのに……。

 シェルターから全然出ない。シェルターに攻撃が仕掛けられるとか、逃げてきた人たちとの攻防があるとか、シェルターの窓に突然死体がぶら下がってくるといった「スピルバーグ的ショッカー演出」もない。

 なのに、ハイテンションの緊張はまったくダレることなく、ずっと維持される。

 この演出は神業だよ!長編初監督とは思えない。凄い。

 果たして彼らの言うことは本当なのか?外に出たら本当に死ぬのか?外は本当に死の世界なのか?

 メアリー・エリザベス・ウィンステッドのタンクトップ姿も魅力的だが、それだけ眺めていても飽きる。しかし、不気味さはどんどん増していく。

 外がどうなっているのか、知りたい!と観客は完全にヒロインに同化して、ジリジリする。と、同時に、デブのオヤジを悪人とも思えない。で変態チックなところもあるけれど、不格好な救世主、人類を救った神のような存在に違いない。

 今までのこの種の映画の定石は、無垢な主人公が一癖ある救世主を疑うが、最後に理解して感謝する、というパターンだ。この作品も、そのパターンに忠実だ。

 ただ、しかし……いっこうに、このクセのあるオヤジが決定的に救世主になる場面が訪れないし、疑惑が深まる伏線がどんどん張られてるばかり。

 この映画は、どうなるんだろう?

 絶対に、最終的には未知の生命体と戦う、もしくは逃げるんだろうけど……あれは予告変容のウソで、それは主人公の減塩だった、と言うオチだったりして?とか、こっちも疑心暗鬼になっていく。

 

 主人公は、脱出する事を選択して、防護服を自分で作る。ここで、主人公が服のデザイナーらしいと言う伏線が効く。

 主人公の動きを察知する男。

 ここで、男の本性が明らかになる。男は、主人公を監禁したい変態なのだ!しかも主人公以前にここで死んだ若い女がいたのは確定的……。

 脱出計画は露見して若い男は男に射殺されるが、主人公は逃げる!

 そうして、なんとか外に出る。

 鳥が飛んでいる。

 虫が鳴いている。

 と言うことは……。

 手製の防護服を脱いでみるが、息はできるし、なんともない。

 ではやっぱり、あの男の芝居だったのか?

 だけど、この映画でそういうオチで終われるのか?

 と思ったら……。

 予想をはるかに超えた、実に気味の悪い、怖い怖い怖いこわい未知の生物がやって来る!

 金属製の飛行船かと思ったら、それは生物!ギーガーが造形したエイリアン形の、最高に気味の悪い生物!

 こう来たか!と嬉しくなる。こう来なくっちゃねえ!

 主人公は、たった一人で、この未知の生物と戦う。

 そして、勝つ!

 シェルターのあった場所から車で脱出する主人公。カーラジオを聞くと、人類は死滅していなかった。まだ生き残って「未知の生物」と戦っている。バトン・ルージュは安全を確保したがヒューストンは戦闘が継続中。戦闘の経験者を求めている。

 ヒロインは、迷わずヒューストンへ!

 しかし、ロングショットで雷鳴に一瞬照らし出されるのは、主人公がやっつけたのと同型のアレのシルエット……。

 上手すぎる!

 この規模ならば、充分、日本でも作れるはず。でも、作れない。この発想がなかった。こういう話を生み出せなかった。

 いやあ、アメリカ人は凄いなあ!と素朴に、心から感嘆する。

 そうして、この素晴らしいアイディアを、確実に、そしてもっと面白く映像化できる才能!

 もう、完全に脱帽だ。ひれふする。

 前作(感じは似ているがストーリーとしては関連はない)も、とても頭のいい映画だった。しかしこの映画は前作よりもっと頭がいい。

 前作の大ヒットを受けて続篇の製作が発表されたが、全然音沙汰がなかった。調べると、早々に「いいアイディアが出ない」という理由で続篇の製作はストップしていたらしい。

 ずいぶん待たされたけど、待った甲斐があった。

 果たして、「クローバーフィールド三部作」に発展するか?

 メアリー・エリザベス・ウィンステッドは素晴らしい。B級ホラーのヒロインとしてキャリアを重ねていたらしいが、魅力爆発。

 しかし、この映画が一筋縄ではいかなかったのは、やっぱりジョン・グッドマンの功績だろう。善人なのか悪人なのか判らないこのキャラクターは本当に得がたい。コーエン兄弟の映画では常に得体の知れないところがある人物を演じていた気がするのだが、その役柄の集大成という感じ。凄い。

2015年10月24日 (土曜日)

天空の蜂

脚本:楠野一郎/監督:堤幸彦

錦糸町楽天地シネマにて

 アクション・パニック映画としては、もっとうまく出来ただろう、とどうしても思う。

 しかし、そういう「揚げ足取り」をして、この作品の価値を下げてはいけないと思う。この映画の欠点だけをあげつらった結果、作品自体が否定されてしまうのはあまりに惜しいからだ。

 原発(この作品では「高速増殖炉」だが)の安全性について正面から扱ったメジャー作品はこれまでなかったのだから、この作品が先鋒となって、どんどん作られるには、この作品の意義をまず高く評価しなければならない。

 福島第一原発の大事故がなければこの原作は映画化されることなく、東野圭吾の小説としては埋もれた扱いのままだっただろう。あの事故によって、やっと、原発の安全性について「安全神話」が取り払われて、キチンとした議論が出来るようになってきた……と思いたい。

 

 反原発映画、といわれてしまわないように、この作品は周到な準備がされている。高速増殖炉を研究開発する意義と価値を本木雅弘に語らせて、それはそれで説得力がある。ただし、実際の「もんじゅ」は事故続きでまともに稼働したことはほとんどないし、海外は「夢のエネルギー」である高速増殖炉の商業ベースでの開発をほぼ止めてしまった。その中で、日本だけが毎年巨額の予算を付けて事業を続けている。

 この作品は1995年現在の状況の時代感に基づいているので、高速増殖炉の研究開発は順調のように描かれている。

 そして、原子力開発関係者への「迫害」も描かれている。地方の原発で作られた電気を消費するだけの都会人への批判も出てくる。

 それらは、「絶対安全な原発などない」という強いメッセージを中和させるためのエクスキューズだったのだろう。もしくは、「この作品は中立です」というスタンスを表明したかったから、両方の言い分を併記した形にしたのか。

 まあ、一方を一方の論理で断じてしまうのは、作品にイデオロギーが付いてしまう可能性がある。しかし、原発が安全かどうか、理屈ではなく、現在、日本にある原発が本当に安全かどうかを論じるのはイデオロギーではなく、極めてリアリティのある現実の問題であって、理系的にイエスかノーかで答えられる(付帯条件が付くから簡単にイエスかノーか言えない、ということになるのだろうが)問題だ。ここに思想とかイデオロギーが絡んでくることはないはずなのだ。本来は。

 しかし、原子力というものには物凄い利害関係が絡んでいるし、政治も深く絡んでいるので、理屈ですっぱり割り切れなくなっている。

 そのへんを突つくと、本気で大変なことになるのだろう。

 しかし、今まで、誰も触れなかった「原発の安全性」に正面から向き合った、初めての作品が本作だ。5年の歳月を掛けて原作を書き上げた東野圭吾も偉いが、巨額の製作費を掛けて超大作として製作した松竹やスタッフも偉い。

 作品の意義は大変大きいモノがあるが……。

 でも、やっぱり、パニック・アクション映画(クライシス・ムービー)として鑑賞すると、「おれならこうするなあ」と思える箇所が結構あるのだ。

 まず、江口洋介のキャラクター。本来なら、技術者の枠を越えて、もっと活躍すべきだろう。まあ、アメリカ映画なら、ダメな夫・ダメな父親として登場した主人公が、危機を救う大活躍を見せて、家族の信頼と愛を勝ち得る、というパターンで描いてしまうだろう。

 この作品も、けっこうその線でやろうとしているが、「主人公はヘリの設計を担当したサラリーマン技術者」というリアルな枠からははみ出ない。ブルース・ウィリスみたいな大活躍はしないのだ。

 それはいい。アメリカ映画の派手な嘘や主人公の大活躍はあまりに派手すぎてシラケることも多々あるから……。

 しかし、江口洋介の夫婦の描き方は、下手くそ。かなり紋切り型だし、息子がヘリに乗っているという危機的な状況の時に、不満たらたらの奥さんが亭主批判をするか?するだろうけど、今言うか?と思ってしまう。この奥さんの描き方は、かなり下手くそというかリアルに考えても違うんじゃないか、と思う。奥さんを演じた石橋ケイ(「深夜食堂」で男前でハードボイルドな女探偵を好演していたのに)が、どうにも上手くない。ヒステリックで嫌な女でしかない。この役がもっと存在感あるキャラクターになっていたら、と思う。

 そして、こういう映画には「状況を混乱させてしまう」人物が必要だが、それが子供、というのには抵抗がある。子供の描き方が、これまた上手くない。説得力が足りないというか……。いろいろ指示通りやれずに状況を悪化させてしまう存在は必要なのだが、もっと上手い描き方があるだろうに……。

 17稿まで書いた脚本らしいが、夫婦とか家庭の部分は、もっと整理できたし、もっとサスペンスに寄与するように書けたのではないか?

 こういう部分、アメリカ映画は実に上手いから、ついつい、ハリウッド映画基準で考えてしまうが……。

 アメリカ映画でも「アポロ13」では男のドラマに家族が絡んでくるのが不満だったのだが。その点、「ライトスタッフ」はその按配が見事だったけれど、上映時間が長いし。

 

 ヘリから救助しようとした子供が落ちてしまう!という絶体絶命の設定は、凄い。しかし、無事救助の決定的瞬間を描かないのは、何故?雲に隠れて様子が分からない、という「もどかしさのサスペンス」を狙ったのだろうが、地上にいる人間の「もどかしさ」を描きつつ、急速降下した自衛隊員が、見事、子供を空中で捕まえる、という決定的瞬間を見せた方が絶対に盛りあがったのに!

 そうすると、ヘリのエピソードが盛りあがってしまって、肝心の高速増殖炉の問題が飛んでしまう、というバランスもあったのかもしれない。

 ただ、自動操縦されているヘリが、高速増殖炉を破壊する凶器になっている、というのがこの作品のミソなんだから、ミソはカスが残らなくなるまで活用しなければならない。

 ヘリにまつわるサスペンスは、「じゃあ高速増殖炉に落ちないように大砲で撃ち落とせばいい」という選択枝を明確に否定しておかなければ。犯人がどこから監視しているか判らない、とか。それでも偽装した高射砲か巡航ミサイルを極秘裏に準備しているとか、そういうサスペンスもアリだったのではないのか?

 まあ、サスペンス映画としては、「もしあのヘリが墜落したらどのような大惨事が起きるか」を、もっと描くべきだった。とても美味しいネタなのに。しかし、それは出来ないお約束だったのだろう。セリフで「日本の大部分が住めなくなります(待避しなければならない)」と言わせているとは言え。

 「実は原子炉建屋は言われているほど強度はない」という爆弾暴露があって、核物質が飛び散った場合の最悪の事態をもう少し強調してみせれば…… 我々は既に経験しているのだから、「それはトンデモない事になる」という恐怖を突き付けられたのに。

 でもたぶん、それは出来ない事だったのだろう。

 ……アメリカ映画の定石をなぞればいいというものでもないと思うし、製作上の制約もいろいろあったのだろうと思う。

 原作の縛りもあったろうし……。

 とは言え。

 今でこそ、原子炉って言われていたほど頑丈ではないことは周知の事実だが、20年前は、劇中でも言われていたが「原子炉建屋にジャンボが突っ込んでも大丈夫」というのが「常識」だったのだ。そんな20年前に、ここまでの事実を指摘して、あの大惨事を予言したかのような東野圭吾は、凄い。

 そんな原作に敬意を表して、原作をじっくり読んでみよう。図書館で借りるのではなく、買って読もう。

 そして、この映画も、最低もう一度は見よう。

 それが、原作者と映画の製作スタッフへの敬意だと思う。

安達瑶の本

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